論壇

現代から近代化を問う

大人の概念が曖昧化する現代に、17歳の意味を考える

歴史民俗資料学研究者 及川 清秀

「成人」をめぐって

2018年6月に「民法の一部を改正する法律」が成立し、成人年齢は20歳から18歳に変わることが決まった。選挙権が認められ政治に直接制度的に関与できる年齢になるのであった。現代において成人とみなされる年齢は、明治時代から約140年間を経て、ようやく各国並みになった。成人式というと飲酒が不可分のものであったが、飲酒に関しては20歳とされ変わらなかった。旧未成年者飲酒禁止法は、1922(大正11)年に公布されたもので、じつはその歴史は新しく、未成年者喫煙禁止法のほうが早く1900(明治33)年のことであった。昔の若者組の小若い衆も加入年齢の15歳に至らなくとも堂々と飲酒できたのである。このように飲酒と成人との結びつきの歴史は至って新しいのであるが、大正11年までは少なくとも成人と飲酒は結びついてはいなかったことがわかる。

20歳という年齢は、敗戦までは徴兵年齢で壮丁検査を受け「軍人」となる特別な年であった。日清戦争以前までは徴兵忌避が多かったが、日露戦争が近づくにつれ家として祝すべき年齢へとなっていた。

ところで成人は法律用語であるが、それでは「大人」と「成人」とはイコールなのであるのか。『広辞苑』によると「十分に成長した人」・「一人前になった人」・「成人」とあり、「成人」とは必ずしも「大人」とは近似しているものの同意味をもつものではなく、また具体的な年齢についての言及もない。

「一人前」ということ―若者組から

ここで「一人前になった人」に眼を向けてみよう。男子15歳という年は年齢階梯社会にとって民俗学的に特別な年齢であった。和歌森太郎は「若衆仲間に入るといふと力で、村人としての一人前の人格は認められた。一人前といふ意味は、第一に結婚しうる身体になつたといふことであり、第二には労働力が人並になつたといふことである。……若衆仲間に入れるかどうかの資格決定を、力石或は番持石などをさし上げられるかどうかによつてする風のところもある。共同の田、ユヒ田を一日に一段あてがつて打起させるやうな土地もあつた。瀬戸内海の島で蜜柑をつくつてゐる所では、山を開いて段を切ることができて初めて一人前といはれる」(和歌森太郎『日本民俗学』1958年)。このように、全国にみられる力石をめぐる民俗なども単なる遊戯にとどまらず「一人前」を披露するもので若者組にとって不可分のものであった。

瀬川清子は第一次産業の占める割合が高い時代には「一人前の労働力」が必要であったとし、その土地の地理的・歴史的条件を基盤として労働の能率の標準が設定されたとし分析した。(瀬川清子『若者と娘をめぐる民俗』1972年)例えば、神奈川県の相模平野の農村などでは、16歳になると米俵をかつがねばならぬので、暮から正月にかけて、どこの家の物置きにも必ず練習用の米俵が転がっていた。馬に俵をつけたり、水車に往復したりする力技、俵のしめかえなどに力があると英雄視されたという。そして労働力は男だけのものではなかった。「山梨県蘆川村では、婦人は炭四貫俵三俵背負うのが普通」とされた。また、労働力だけではなく性的にも「一人前」になることで、若衆に入ればヨバイをすることができた。

このように、「一人前」という若者組入りの15歳という年齢は、子供から大人へという通過儀礼として年齢階梯社会において重要な意味を持っていたのである。若者は祭礼・労働・警備・性に深く関与しムラの中でも若者組の権限は強かった。若者組時代では労働力が、明治20年代以降発達してきた青年会では知識がものをいったのである。しかし、学校教育に代表される文明化の波は若者組が持っていた「力」を奪い取った。愛媛県の浜田の泊り屋には、力石が転がっていたが、明治中期になると青年は夜学会の場へと移り、若者組の泊り屋には力石は捨て置かれその意味を失うことになったが、そういう時代へという変化をみごとに象徴している。柳田國男はこうした時代の転機において若者組がムラの「中堅」としてその存在意義を持っていたように、発達しつつあった青年会を国家の「中堅」として認めるべきと述べている。

若者組から青年会の時代へ―夜学へのまなざし

さて、『地方改良実例』(内務省地方局/1912年)は、篤志家として鳥取県氣高郡湖山村栖岸寺住職の園法洲の事績を紹介した。

……法洲は其居村の青年等が若連中なるを設け酒食に耽り遊惰に流れ偶々読書を為すものあれは常に之を妨害するの風あり、又祭礼祝事等の節は各部落の若連中互に軋轢し争闘を為すを以て快事となし風紀大に頽敗せるを慨し、明治二十二年十一月二三の有志と相謀りて青年会を起し夜間を以て学業を授け以て専ら悪風の矯正を図らんと欲し、入会を勧誘したるに容易に応する子弟なきのみならす其の父兄にして猶ほ之を非難するものありき、然れとも法洲は毫も之に屈せす熱心勧誘の結果漸くにして十名の同志を得たるを以て寺院の一室を会場に充て油炭費等は自ら之を支弁し他の有志と共に専心之か薫陶に勉め入学者各自の希望に任せて相当の学科を習修せし来りしか漸次会員増加し二十五年には約五十名に稍々好況の成績を示せるを……

この事例は山本滝之助が若連中から青年会を立ち上げたよりも早くに青年会を興している。若者組への批判は「遊惰」だけではなく、青年の「読書」への「妨害」という「知識」を得る青年に対しての攻撃を見ることができる。このことは、時代の転換期における象徴的な行為をみごとに示唆している興味深い事象である。そして「祭礼」の「快事」もまた批判の対象となって「風紀大に頽敗」と問題視している。そして祭礼と夜学の軋轢、今村仁司の語をかりるならば「余暇」から「勤勉」へという時代的文脈は、若者組から青年会への発達において避けては通れない歴史的過程、すなわち近代化であったことがわかる。青年会の形成において父兄の保守的無理解も青年会立ち上げの妨げともなった。しかし法洲は、屈することなく熱心に同志を集め、寺院の部屋を勉学の場として提供し夜学会の基礎を作った。文脈からは青年会の立ち上げの苦労、祭礼から読書・勉学へという時代の変化、そして若者組から青年会へという時代的潮流をみごとに読み取ることができる。その後、法洲の夜学は一九〇六年(明治三九)には村立夜業補習学校の設立へとつながっていった。

何故、青年会・青年団研究は遅れているのか

こうした青年会の勃興は、山本滝之助の言うところの「社会改良」運動であった。しかし戦後歴史学において青年会を真正面から捉え直す研究は、表面的には鹿野政直の『資本主義形成期の秩序意識』(1969年)があるものの「国家の伝声管」、宮地正人の『日露戦後政治史の研究』(1973年)では「官製化」の歴史としとされ、近代史としてふれざるを得ないものの積極的な研究対象とはならなかった。おそらくそれは「大日本青年団」がGHQから解散命令がなされたように軍国主義を率先したこと、そしてその本質としてそもそも「社会改良」とは言うものの国家政策と結びつき〝民衆運動〟とは無縁であったことによるものと思われる。近代史においては自由民権運動から大正デモクラシーの狭間の「時代」に陥っているのである。しかし地域史、近代の地方文書を紐解く時、若者組から青年会への移行を無視することは出来ない根幹的な問題を内在させていることがわかるのである。

そうした潮流において多仁照廣は『若者仲間の歴史』(1984年)で若者組から青年会・青年団の歴史の流れを、そして『山本滝之助の生涯と社会教育実践』(2011年)を著している。しかしながら若者組から青年会・青年団への時代的流れを〝近代化〟という文脈で捉えきれておらず連続性に陥っているとともに社会教育に集約しすぎるきらいがある。しかしながら蓮沼門三の修養団との関係を指摘するなどこれからの青年団研究への途を開いていることは確かである。

さて若者組や青年会・青年団が「一人前」として地域社会で認められていた時代に対して、現代ではどうであろうか。

17才という年頃―学校という空間をめぐって

60年安保闘争で岸信介内閣は退陣した。そんな政治的空気冷めやらぬ1964年、西郷輝彦は「十七才この胸に」を歌った。1968年、女子中高生向けファッション雑誌『週刊セブンティーン』が集英社から創刊された。高度経済成長期を経て社会は確実に変わろうとしていた。筆者が生れたのは1965年。中学2年生の時、昼食中に教室のスピーカーからバンバンの「いちご白書をもう一度」(1975年)が流れて来たのを覚えている。鮮烈なメロディーであったが、歌詞は僕を包む時代とは、ハッキリ言って無縁であった。

♫僕は無精ヒゲと髪をのばして
学生集会へも時々出かけた
就職が決って髪を切ってきた時
もう若くないさと
君に言い訳したね

日米安保条約の破棄をもとめた70年安保闘争・ベトナム反戦運動は全共闘を中心とした学生運動のうねりとなった。そんなヘルメットとゲバ棒の余波が立ち込めていた年は、終ろうとしていた。闘争の時代への決別、言い訳の歌である。そんな曲に学生たちは惹かれ、次々と髪を切って「社会」へと流されていった。

そんな政治的にあけくれていた時代の4年前の1971年、南沙織は「一七才」をヒットさせていた。 

♫。・・・息も出来ないくらい
早く 強くつかまえに来て
好きなんだもの
私は今 生きている

ちょっと異人風の顔で明るく透きとおる歌声は若者たちの渇いた心を瞬く間にとらえたのである。時代はもうすでに変わろうとしていたのである。学校という権威を打ち壊すのではなく同化していく時代へと。学校という空間は人生の通過制度として不可分の場と化しはじめつつあった。淡い繊細な糸の因りそう恋愛は「学園生活」という言葉の中にからめとられていく・・・。

1975年に中村雅俊主演の「俺たちの旅」がテレビで放映され、学園ドラマのさきがけとなる。学校は打ち壊す権威ではなく「学園生活」が花開き、青春を燃やす空間へと変わった。同年に桜田淳子の「十七の夏」がヒットする。

♫特別に愛してよ 十七の夏だから
私を変えていいのよ 泣いたりしない
まぶしさが好きなのよ 正直になれるから
心のうちのすべてを 打ち明けられる

テレビを媒体としたアイドルの時代の全盛期である。高校3年生である「17才」は青春の象徴の年齢として歌謡界では浸透している。

1978年には水谷豊主演の「熱中時代」が、翌79年から武田鉄矢主演の「3年B組金八先生」がテレビ放映され「学校」をテーマとしたドラマが人気を博すようになる。1981年には河合奈保子の「17才」がヒットする。

♫大人でもない 子供でもない
だから愛も ゆれるんです
友達じゃない 妹じゃない
恋人への階段 のぼり始めたら
ちょっぴり幸せ ちょっぴりブルー
ひとつのぼって ひとつ迷ってときめく
感じてマイハート この胸は
もうあなたで いっぱい
息が止まるくらい 抱きしめて
ああ 17才の私

「17才」という年齢を「大人でもない子供でもない」と、素直に明るく表現している。同年にアイドルデビューした松本伊代の「センチメンタルジャーニー」の1節「♫伊代はまだ16だから」も17才を意識してのフレーズである。

しかし80年代というのは、学校と非行という社会問題が表面化した時代である。1983年には「積木くずし」、翌84年には山下真司主演の「スクールウォーズ」がテレビで放映されるに至る。学校は、学級崩壊によって、もはや形骸化した。

次々と明かされる教員の盗撮・援交・体罰に対して、学校・教育委員会の隠ぺい体質は、小さな若い人生を縛る軛(くびき)そのものを、学歴社会を盾に反面で牛耳っていた。しかしドラマ(メディア)は学校社会へ溶け込むことをあくまでも主題としていた。それを「生きる」ことだと。

そういう矛盾を突いたのが、1983年に高校在学中にデビューした尾崎豊のシングル「15の夜」、アルバム「十七歳の地図」である。

♫十七のしゃがれたブルースを聞きながら
夢見がちな俺はセンチなため息をついている
・・・
喧嘩にナンパ 愚痴でもこぼせば
皆同じさ
うずうずした気持で踊り続け 汗まみれになれ
くわえ煙草のSeventeen's map

街角では少女が自分を売りながら
あぶく銭のために何でもやってるけど
夢を失い 愛をもて遊ぶ あの子
忘れちまった
心をいつでも輝かしてなくちゃならないってことを
少しずつ色んな意味が解りかけてるけど
決して授業で教わったことなんかじゃない
口うるさい大人達のルーズな生活に縛られても
素敵な夢を忘れやしないよ ワァオ!

尾崎は学校という牢獄を壊し、愛や生きる意味を問い、それを曲にして大人社会へ唾を吐いた。抵抗した。学校という空間におさまる学園ドラマの風潮に背を向けた。かつて髪を切った若者がきずいた学歴社会という楼上に異を唱え、苛まれたそのちぎれるような苦しみを声にして歌った。

しかし〝生徒〟は芸能界に酔いしれ「ザ・ベストテン」のしもべと化していた。1982年にアイドル中森明菜は「少女A」を歌った。

♫いわゆる普通の17歳だわ
女の子のこと 知らなすぎるのあなた…
早熟なのは しかたないけど
似たようなこと 誰でもしているのよ
じれったい じれったい

「少女A」というショッキングなタイトルもファンの声にかき消され、新聞の社会面から芸能面の言葉に飲み込まれている。同年にはフジテレビのバラエティ番組『夕やけニャンニャン』で「おニャン子クラブ」が芸能界デビューした。芸能界に染まる〝生徒〟たちは、それなりに学校からのはけ口としていたと捉えることも出来よう。 

それゆえに、余計に尾崎豊は俗世間から離れて、ひとり自分の志を守るという異次元に立たされ、どこか時代とのすれ違いという暗い溝に陥っていたとも思われる。それゆえに彼の死は、いたって冷たくさびしい。

17才は社会的には大人でもない子供でもない年頃。法律的には罪を犯せば、まさしく「少女A」。「いじめ」が社会的に問題となり表面化したのは90年代、その黒かびのような根がはびこり始めたのは、もっと前のことからである。

森高千里は、1989年に南沙織の「一七才」をリメイクしている。「17才」という年には至って現代を映す時代的な意味があるのである。大人でもない子供でもない境界的年齢の「17才」を我々は見過ごすことはできない。しかし「17才」という高校を卒業した〝生徒〟には「一人前」を社会的に与えられていない。そうした社会的次元における「成人」である。それは「満20歳」においても同様であって制度的な次元の問題に過ぎない。

子供と大人の境界線の希薄化

ここで「17才」を論ずる前提として子供と大人との境界線の希薄化を見逃してはならない。80年代、横浜駅西口の繁華街を大人たちが酔いながら歩く午後10時、青いカバンにNの文字が目立つ小学生も友達とふざけあいながら帰路を急ぐ。学習塾からの帰りである。筆者の住んで居る横浜のとある小さな商店街には居酒屋の前に学習塾があって、夕方から夜遅くまでこうこうと窓から蛍光灯の明かりがさしている。

かつては『独占!おとなの時間』、という情報バラエティ番組が1977年から1981年まで東京12チャンネル(現・テレビ東京)で毎週土曜日深夜に放送され、サブカルチャーとして性風俗をも取りあげていた。筆者が中学生の頃で、沢たまきの司会のこの番組を小型テレビを布団をかぶせ親に悟られないようにイヤホンで聴いて観ていたのを思い出す。その頃は子供の時間と大人の時間には確かに境界があったが、80年代以降その境界線がぼやけ始めたのである。

そういう時代のなかにあって、子供から大人への「一人前」という文化はとうの昔に廃れている。15歳で加入する若者組は性・夜警・賭博と〝夜〟をある意味、網野善彦になぞらえれば「公界」を支配していたが、そうした意味はなくなり〝夜〟は境界線を失ったのである。こうした文脈で「17才」をあらためて見つめ直すと、「♫大人でもない子供でもない」の社会的・時代的意味を問わざるを得ないのである。

民衆―それでいいのか

このように考えると「成年」はある意味〝一人前の大人〟ではないのである。高校はある意味で実態として義務教育の延長線上にあるが、教育制度は〝大人〟を生み出すプロセスとしてはあまりに貧弱で、汚れていた。こうした80年代以降を考える時、「民衆」という語もまた過去の学術用語になりはてているのではないかと思われる。『デジタル版現代の理論』の創刊にあたって本誌代表編集委員の千本秀樹は「国家を突破する新たな民衆思想の創造を」を掲げた。石橋湛山に言わせれば大正期において大衆は国民化していた。民衆という言葉は大正期には光彩を放っていたが、70年安保闘争において、歴史学は〝民衆〟を探し明治期の自由民権運動、大正期の米騒動に眼を向けた。その延長線上において〝労働者〟・〝学生〟は、それなりの政治的意味を持っていたことは確かである。

しかし時代を越えて普遍性を持たずに実態としては、次の時代への架け橋としての概念とはなり得なかった。団塊の世代は「♫髪を切って」、〝会社員〟・〝生徒〟の時代を生み出す主役として学歴社会を構築し、仕事を終えて同僚と一杯飲みながら千鳥足で繁華街を歩くが、夜のネオンではない蛍光灯から吐き出されえて来る〝子供〟を見る目を失っていた。自由民権運動や米騒動や大東亜戦争は試験の問題集のひとつの用語になり果てていた。その乖離を、眼を見開いてみることができなかったのである。歴史学者は〝時代〟を見据えなければならないのであり、「政治性」にばかりに捉われていてはならないのである。そうしてはじめて法洲や山本滝之助を論じることができるのである。

民衆ということは、今ではもう古い。ロックの市民政府論を考えるのであれば〝市民運動〟へと現代は移っているのである。石橋湛山は生活と国家の結びついた時代相を、明治末から大正期にすでに捉えていたのである。卵ひとつを買うにしてもその安全性を井戸端会議する女性たちの会話にこそ〝政治〟は隠されているのである。

家族とは

現代は「核家族」だと言う。1986年のキッコーマンの「味ぽん」のCMの冒頭を明石家さんまが歌う。「幸せって何だっけ 何だっけ ポン酢しょうゆの ある家(うち)さ」。あらためて〝家族〟とはと問いかけるもので社会の反響を呼んだ。食卓を囲む家族の薄れた時代相を、みごとに表現している。しかしそこで希求された家族の団欒は核家族の淋しさを映し出した。食卓を囲むことすら忘れられていること。〝家族〟とは何か。この言葉も、もうすでに乾涸びている。近年の「子供食堂」の急速な広まり。子供の7人にひとりは「貧困」に陥っている、と言われる。

核家族と言われるが衣食住、子供を育てる、高齢者を介護するという生活は家族と言う共同性を失い、個化し、それぞれが社会的サービスの対象と化している。〝家族〟という概念が個の集合体と言うべきものへと化し、その必要性すらが希薄化しているのである。保育園、学校、塾、学童保育、高齢者デイサービス、病院、老人ホーム、養護学校、障がい者の地域作業所等々、生きることはさまざまな社会的・制度的サービスに頼らなければ成り立たないと言う現状に陥っているということに眼を向ける必要がある。RGBTQ、〝性〟とはも問われている。社会的現状はもはや〝家族〟を必要としていないのである。そうした個化した時代とどう向き合って行くのか。その〝社会像〟を積極的に描かなければならない。 

確かに少子高齢化社会にあって、「子ども家庭庁」の新設は社会の趨勢にある。しかし子ども行政を司る機関の名称として、当初「子ども庁」であったのに対して「家庭」の文字がねじ込まれたことの意味することは注意を要する。この機関の法的根拠には2012年に発表した自民党改憲草案の「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」「子どもは家庭を基盤に成長する」という理念の明文化をあきらかに読み取ることができるからである。核家族もまたぼやけはじめた時代の現状を懐古的な家族主義に縋っているのである。

安倍政権下、森友学園が運営する幼稚園で、子どもたちが連日、教育勅語を朗唱していた。何が起きようとしているのか。2017年3月31日に安倍政権が「(教育勅語を)憲法や教育基本法等に反しないような形で教材として用いることまでは否定されることではない」という答弁書を閣議決定した。「子ども家庭庁」の創設には、そうした時代錯誤の復古的・戦前回帰の価値観というイデオロギーが潜んでいるのである。

いっぽうで家族・家庭を社会的に自立したものとして国家権力からの介入を阻止することは、表面上もっともな価値観でもある。しかし児童相談所の必要性は国家制度という行政が家庭に立入ること、すなわち子供を守るという機能を有するのである。国家を対権力として見るのではなく、市民社会を守る制度として自らのものとする市民意識という見方が必要になることが求められる。復古的な教育勅語的価値観では虐待や、あるいはいじめの問題を抑止することはできないのである。

最後に―近代史への視線

福沢諭吉の『学問のすすめ』は百万部を超えるベストセラーであると言われる。現代、米津玄師の『Lemon』はYouTubeで何億回も再生されている。愛する人を失った心境を、そのうけいれがたい別れを、酸っぱい強烈な味覚といつまでも鼻につく消えない匂いを漂わせるものとしてレモンに象徴させた。歴史学者は『Lemon』を聴いたか。近代の青年の歴史を論じる時、物質と精神、個、愛や恋を無視することは出来ない。谷崎潤一郎の生々しいエロスを描いた最高傑作『痴人の愛』、愛・欲・禁断の恋を描いた『卍(まんじ)』。〝修養〟との関係からも無視できない倉田百三の『出家とその弟子』・『愛と認識の出発』、これらもまた青年男女を読者層としてつかんだ時代のベストセラーである。

大澤絢子は『「修養」の日本近代』(2022年)を著した。新渡戸稲造の『修養』も今もってベストセラーである。確かに近代は修養の時代であったといっても過言ではない。そしてそれは現在も存在する修養団へとつながっている。しかし西田天光、倉田百三、後藤静香、田澤義鋪、山下信義をはじめ政財界・官僚にも浸透していた、近代の多様で複雑な修養の頂点に位置しあらゆる修養をも取り込んだ蓮沼門三の「修養団」の強烈な国家主義を見落としてはならない。青年団運動の創始者でもある田澤義鋪に国家主義とリベラリズムを見抜いた武田清子『日本リベラリズムの稜線』(1987年)が指摘したように、その癒着が青年団運動の修養団化をまねいてしまったという「修養団」の持つ政治的位置を見落としてはならない。しかし修養という曖昧さの近代という本質を指摘することまでには至っていない。そういう意味において、近代という時代を捉える時、田澤義鋪の青年団運動と修養との融合の解明はひとつの重要な糸口となる。このことは稿を改めたいと思う。

ここまでにしておこう。「成人」になることから、いくつもの時代を紐解く鍵を開くことの重要性を語り得たと思っている。身近なあたりまえのようである風景から〝歴史〟を見つめることの大切さをしみじみと感じている。

 

資料紹介

「青年会における支部活動―田端青年会活動日誌「記録」」(「寒川町史研究」1993年)
「伊勢参宮日記」(「倉橋町史研究報告2」1990年)

論文

「地方における青年会政策とその動向について―神奈川県の事例から」(「地方史研究」2001年)
「神奈川県下における青年団誌の発行状況と農民文芸」(「神奈川地域史研究」2001年)
「倉橋町の絵馬文化とその流行」(『倉橋町史 海と人々のくらし』2000年)
「積雪地方研究所と民芸運動」(『日本地域の歴史と民俗』2003年)

著書

『山のむらから―歴史と民俗の転換期』(2007年 近代文芸社)

おいかわ・きよひで

1965年、神奈川県生まれ。神奈川大学法学部卒、経済学修士(神奈川大学 1991年)。歴史民俗資料学博士(神奈川大学 2021年)。資格:学芸員

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