特集 ● 社会の底が抜けるのか

現代日本イデオロギー批判 ―

災害が暴いた脆弱国家日本の現実

脆弱性が依存を強めるという逆説について

神奈川大学名誉教授・本誌前編集委員長 橘川 俊忠

よりによって元日とは

2024年1月1日午後4時10分、マグニチュード7.6最大震度7の巨大地震が能登半島を襲った。マグニチュードといい、震度といい、直下型といい、阪神淡路大地震を直ちに思い出させられた。直下型の大地震といえば、熊本地震の方がはるかに近かったにもかかわらず、私の頭にまず浮かんだのは、30年近く前の阪神淡路大地震であった。

熊本地震が7月という真夏だったのに対して、阪神淡路は1月という極寒の時期だったという共通性があったためかもしれない。しかし、地震発生後一月が過ぎた今、振り返ってみると、どうもそれだけではないらしい。なかなか被災の実態が伝わってこないことへのいらだった気分が似ていたのではないかと思えてきた。東日本大震災は、あまりにも規模が大きく比較を絶しているような気がした。

阪神淡路の時も、東日本の時も、震災の具体的な様相の概要が明らかになるまでには、地震や津波が発生してから相当の日数を要したことはまちがいない。関東大震災以来といっても過言ではないほどの大災害であったことを考えれば、それもやむを得なかったといえるかもしれない。

しかし、今度の能登半島の場合は、どうも様相が違った。初期段階には被災状況を知るための情報の量そのものが極端に少なかった。伝えられたマグニチュードと震度から判断すれば、阪神淡路程ではないにせよ、熊本に匹敵するか、それ以上の被害が想像された。後に、高く評価されるようになった地震直後のNHKのアナウンサーの津波警報を知らせ、早急な避難を呼びかける放送ばかりが目立っていた。

元日の午後4時過ぎという時間に発生したということのためか、NHKとTBSを除く民放各局は、正月用の特別番組を放送し続け、翌2日も放送局の大勢は変わらなかった。放送局の意図はどうであれ、事態の重大さ、深刻さについての認識の甘さを指摘されても仕方のない状況であった。お笑いを中心としたバラエティー番組や駅伝中継などには、正月という特別の時期であることを考慮しても違和感を持った者も少なくなかったと言わざるを得なかった(この発災段階の対応について、放送局が自分たちの事態把握力の不足を反省する声は、現在に至るまでほとんど聞こえてこない)。

筆者は、1980年代中頃から20数年間、輪島市町野地区を中心とした奥能登地域に毎年調査に通い、その地域の人々とも広く交流を続けてきた。その奥能登が大変な災害に襲われているという。交流のあった、お世話になった人々は無事だったのか、調査で訪れた集落やそこで守られてきた文化財はどうなったのか、憂慮・心配は膨れ上がる一方であった。能登は、筆者にとって、日本の近世・近代史を考え直させる、狭いけれども重要な発見に導く貴重な経験をさせてくれた場所であった。

通っていただけの筆者ですら情報の少なさに苛立たしさを覚えずにいられなかったが、その地を離れ遠くから情報が届くのを待つしかない能登出身の人々の心情はいかばかりのものであったか。想像するだけで胸が痛くなるような状況であった。最初、よりによって元日とは、という考えが頭をよぎったが、時間が経つにつれて、情報の少なさの原因にはもっと構造的な問題があることが明らかになってきた。

この情報化社会で情報の不足とは

元日といえば、ただの休日以上に役所も警察・消防も職員の休みが多く、情報の収集・整理・発表も十分な体制が組めず、マスコミの動きも鈍い。二三日すれば体制も整い、被災状況も分かってくるだろうと思っていた。ところが、二日が過ぎ、三日が過ぎても、輪島朝市通り周辺の火災や倒壊したビルなど地震被害の甚大さについての報道は増えたものの、能登半島全体、特に奥能登地域の状況については把握できていない、連絡不能地域が相当あるなどという情報が繰り返されるばかりで一向に状況が分からない。

地震による地滑り、がけ崩れ、道路損壊、トンネル崩落など交通網が寸断され、人による情報の集約ができなくなっていた。そして、スマホ・携帯などの通信手段も電波中継設備の損壊や電源喪失などによって、使えない地域が相当広範に広がっていたという。そうした地域の中には、テレビの電波も受信できず、完全に情報途絶状態に陥ってしまつたところもあったらしい。

実際、筆者が最もよく通った輪島市町野地区は、そういう情報孤立状態に二週間以上おかれていた。その地区には、国指定の重要文化財、登録文化財、その地区の旧家や住民たちが持ち伝えてきた大量の古文書・書籍・文化財があった。それらの歴史的遺産がどうなってしまったのか、一部の破損状態はマスコミでも伝えられるようになったが、全体状況は一月経過した今も依然として不明である。市の文化財担当の職員も被災者救援を最優先にせざるをえない状態が続いて、そこまでは手が回らない現状では、仕方のないことといわざるをえないのかもしれないが。

それはともかく、道路も遮断され、家も倒壊し、電気は停電し、水道も出ない、そのうえ情報も不通。冬の厳しい寒さ、真っ暗の中で、周りはどうなっているのか、救助は来るのか、道は通れるのか、一切分からない。自分たちの状況を知らせようにもその手段がない。その心細さは想像を絶している。そして、一夜が明け、明るくなってきても、集落外に出ている家族・親戚・知人に一先ず命ながら得たことだけでも伝えようとしても、それもできない。そういう状態が、場所によっては三週間以上も続いた。そういう地域で耐えている人々の辛抱強さには、ただただ頭を下げるしかない。

いずれにしても、今回の能登地震ではっきりしたことの一つは、情報・通信が、電気、水道、交通とならんで安全・安心な社会生活を支える重要な社会インフラになっているということである。しかも、その情報・通信のインフラが極めて脆弱な基盤の上でしか機能していないということも明らかになった。もともと、能登半島での情報化は進んでいたとはいえなかった。筆者が調査に通い始めた1980年代後半頃でも携帯電話がどこでも通じるという状況ではなかった。人里離れた海岸部や山地では、アンテナが立たないところの方が多かった。しかし、近年は、一応どこでも通話が可能になっていた印象があった。だから、今回の地震災害で通信不能という事態には、正直にいっていささか驚かされた。

どうやらこうなってしまった直接の原因は、電波中継基地・アンテナが損壊したこと、予備電源が使えなくなってしまったことにあるようである。もともと、山地が多く地形の複雑な能登半島では、中継基地・アンテナは、大型のものでは経済的効率が悪いということで、小型のものを人家の近くに作るという方針で設置されたという。それも、民間の通信各社がそれぞれの方針に従って設置している。非常用電源を確保するためのバッテリー、発電機および燃料の備蓄は十分であったのか。結果を見る限りでは十分とはいえないであろう。この点に関しては、能登半島の地理的条件の特殊性に責めを帰すことはできないであろう。

通信インフラ脆弱性の原因

以上のような通信インフラの脆弱性は、道路、水道、電気などの生活関連インフラの脆弱性とも共通した問題がある。その各インフラについて、詳細を論じることはできないので、ここでは通信の問題に絞って検討しておくが、その共通の問題というのは、経済的効率を最優先にするという現代日本社会に蔓延している発想にあるということである。

かつて電信電話事業は、公的なものと考えられてきたが、1980年代の国鉄とともに民営化され、民間企業の論理の下に置かれるようになり、費用対効果の論理の支配下に入ることになった。通信可能範囲の拡大や安定性の確保よりも、収益性が重視されるようになるにしたがって、通信事業の公的性格は薄れていった。

固定電話の時代、電話事業の中心は電話回線の拡大にあった。電話機のモデルチェンジがなかったわけではないが、それが販売戦略の中心を占めることはなかったし、そこに何かアプリが組み込まれるということもなかった。しかし、現在のスマホは、スマホの新モデルの発売が大騒ぎになるように、通信会社の販売戦略の在り方を根本的に変えてしまった。回線も有線から無線に変わり、通話だけの機能から、様々なコンテンツをやり取りする多様な機能を備えるようになった。その変化が、小型のパーソナルコンピューターと化したスマホの個人化を促し、通信連絡の手段としての機能を埋没させてしまったといえるかもしれない。そして、そのことが、通信事業の公共性を見えなくさせた。

地方では、電話線が引かれ、個人の家に電話機が置かれるようになることが新聞のニュースになるようなこともそんなに遠くない時代にはあった。しかし、電話が開通したことがニュースになることが無くなった今、電話線に象徴された通信インフラそのものへの関心が薄れたことも否めない。まして過疎化・高齢化が進み、スマホ市場としての価値が低下し続ける地方で、通信インフラの整備への関心が向けられなくなったことのつけが回ってきたということの結果が、今度の能登地震による通信途絶であった。

地震は、いうでもなく人間が起こしたものではない。今のところ人間のコントロールの及ばない自然の力のなせるわざである。救援活動や復旧工事の困難さをいう時、半島としての特殊性や山や海岸などの自然条件が持ち出されることが多いが、それが、道路破壊し、電柱をなぎ倒し、水道管を破裂させたりしたわけではない。半島という特殊な条件や地震の可能性は、すでに分かっていたにもかかわらず、それへの備えを怠ってきたことが、災害を大きくし、復旧を遅らせているのではないか。問題は、自然にではなく、人間の側にある。

その人間の側の問題の一つとして通信インフラの脆弱性を指摘してきたが、能登半島特に奥能登地域の場合には、さらに検討しておくべき問題があった。それは、人口流失による過疎化と高齢化の問題である。

合併によって弱体化した自治体の力

過疎化・高齢化は、奥能登に限った問題ではなく、大都市圏以外の全国各地で見られる現象であるが、奥能登地域はその進行度合いは非常に速い。人口はここ30年で約半分に減少し、65歳以上の高齢者の比率は約50パーセントだという。もはや、奥能登全体が限界集落に近づいているとさえいわれている。人口の減少と高齢化は、地方自治体の税収の低下に直結し、高齢化に伴う支出の増大ともあいまって、財政の悪化をもたらした。こういう自治体財政の悪化に対して、中央政府が打ち出したのが自治体合併による行政の効率化を促進するという政策であった。中央政府は、合併自治体には特別の補助金を支給するという飴をぶら下げて、合併促進を図った。そのためもあってか、全国的に自治体合併は急速に進展し、「平成の大合併」といわれる状況が生まれた。

能登の場合、各市町村がどのような対応をとり、合併に至ったのかの詳細は把握していないが、筆者が調査に通っていた当時と比較すれば、自治体の数は半数以下に減少していた。合併すれば、市町村長や市町村会議員の数も減り、役場職員の数も減らせる。自治体が担う事業も整理して、民間に委託できるものはできるだけ外部の業者に任せる。正規職員も数を絞り、非正規雇用職員へ切り替える。合併に伴う合理化によってこうした「改革」を促進し、自治体「経営」の効率化を実現する。

今度の能登地震では、こうして実現されたはずの効率化された自治体の危機対応力が試されることになった。まだ一か月しか経っていない時点で、早急な結論を出すことは控えなければならないが、すでにいくつかの点で問題が出てきていることは否定できない。地震発生からの状況把握の遅れは、明らかに警察・消防等も含めた人員の不足が影響していた。支援物資が届き始めても、その配布のための人手が足りないという嘆きの声が聞かれた。当初、交通網が寸断されているためかえって混乱の原因になりかねないとしてボランティアの現地入りに制限がかかっていたが、それは道路状況のみによるのではなかった。ボランティアを受け入れ、効率的な活動を可能にするために人材配置などの組織化する能力を備えた人材が不足していたためもあった。

これは、筆者の情報不足のためかもしれないが、どうも東日本大震災の時と比べて、県知事や市町村長の活動の様子や発言が伝えられることが少ないような印象がある。それも、自治体の首長が、自分が首長である自治体の情報を十分に得られていないことに原因があるように見えた。地震発生直後には、自衛隊は航空機を飛ばし、上空から能登半島全体の詳細な航空写真を撮影したという。そこで得られた情報は自治体に提供され、共有され、状況把握に役立てられたのだろうか。少なくとも、その情報はマスコミ上には現れてはこなかった。マスコミ各社がヘリコプターを飛ばし、上空から撮影した映像の一部は放映されたがそれもどれくらい活用されたのか。現場の自治体関係者の状況が把握できないという声は、悲鳴に近かったにもかかわらず、首長達が、自治体が取得すべき情報を要求あるいは要請したという声も聞こえてこなかった。目立ちたがるだけの、空疎な首長がいないだけまだましなのかもしれないが、少しおとなしすぎるという印象をぬぐい切れない。

自治体合併は、公共インフラの脆弱化と人手・人材不足をもたらし、過疎化・高齢化に対応すべき力を削られてきたと言ったらいいすぎかもしれないが、少なくとも力を増大させたとはいえないであろう。

災害が強める国家への依存

災害が、一自治体の対応能力をはるかに超えた苛烈なものであった場合、その地域の住民はどこに助けを求めればよいのか。結局は、国=中央政府に頼るしかない。情報も、人手、人材、装備そして財政も、そこからの支援に頼ることになる。特に緊急性が高い場合には、この国では自衛隊に出動を依頼せざるをえない。被災者救援や復興にかかる費用も中央政府の財政支出以外には、調達不可能であろう(地震・津波の被害が、もし原発に及んでいたら、政府の力でもどうすることもできないほどの被害が出た可能性もあるが、その問題はここではおいておく)。

巨大な災害は、政治にも大きな影響を与える。災害はただ受忍すべき自然が引き起こした事態ではなく、被災者の救済は国家の存在意義にかかわる重大問題であるという共通認識が広がっている現代にあっては、災害対策は直ちに政治的問題となる。実際、阪神淡路大震災の時には、時の村山政権は自衛隊出動要請が遅かったという批判を浴び、退陣を要求する保守勢力に口実を与えることになった。東日本大震災の際には菅政権は、特に原発事故対応の問題で批判キャンペーンに晒され、退陣後も民主党政権への不信感を造成する材料として利用され続けた。

そういう批判やキャンペーンが一定の有効性を発揮したのは、災害時に強まった国家依存という心理が底流をなしたと見て間違いはないであろう。もちろん、そういう心理を持たざるをえない被災者をせめるつもりは毛頭ない。十分な備えもない状態で救援に全力を尽くしている自治体の職員や警察・消防、泥濘の中を動き回っている自衛隊員達を非難するつもりもない。国家がちゃんとした国家であれば、被災者の立場に立って救援の手を差し伸べ、できれば、日頃から脆弱さが指摘されていた公共インフラの整備や緊急事態への即応体制の整備に尽くしているような国家・行政であれば、それに依存することに非難されるべき点は何もない。

問題は、題目のように経済効率だ、コストパフォーマンスだ、アウトソーシングだ、合理化だなどと目先の経済的利益ばかり追求し、ただちには利益を生まない災害対策のような長期的視点に立った政策に目を背けている政治家・官僚や財界人、マスコミ人、評論家達にある(この中には、復旧に名を借りて、早くもコンパクトシティ構想などという新しい投資事業を提唱する者達も含まれる)。そういう者達は、新自由主義的価値観に基づいて国家や行政の民政に関わる部分の組織・予算の縮小・削減を図り、競争原理の導入という格差拡大政策を採用し、そのことによって市民社会に分断を持ち込み、公共インフラの脆弱化をもたらす。そこに国家や民族の神話的論理を持ち出し、強力国家の幻想をかきたてる。

災害や戦争は、客観的かつ長期的観点に立てば社会の自立性を奪い公共部門の脆弱化をもたらしているにもかかわらず、国家以上に頼るべきものはないかのように見せかける絶好のチャンスを与えているかのようである。いま、世界中に蔓延しているポピュリズム的政治は、実はどれも同じような構造を持っている。日本も、決して例外ではないことが、今回の能登半島の大災害で示されている。

何がなされなければならないか

少しばかり話を広げすぎたので、最後に、なすべき課題について少しばかり書き加えておきたい。

現代の国家は、社会主義が破綻し、福祉国家の評判も落ちたとはいえ、国民の安全と生活の保障をその存在理由としていることはまちがいない。ポピュリズムの政治家も権威主義体制の独裁者も、そのことは十分自覚している。あるいは、現実の人々の生活が国家に否応なしに依存していることを巧妙に利用して統治しようとしている。社会が複雑化し、相互依存の網の目が世界から一市民の生活に至るまでからめとっている動かしがたい現実があるからである。

実際、断水してしまった水道に対して、昔は井戸があったではないか。奥能登でも1960年頃までは人口が今の倍はいただろうし、水道も普及していなかったはずでそれでも生活ができたではないか、と言ったところでもはや誰も耳を貸さないだろう。公共インフラを含む依存関係についての認識を変えようとしてもおそらく無理だろう。ただ、水道事業の民間委託の適否や適正規模の水道システムへの転換の可能性、配管の耐震化などについて検討することはできるはずである。コンパクトシティなどという新規事業にくくりこむのではなく、できることでしてこなかったことを徹底的に洗い出す作業からまず始めよう。通信インフラの問題でも、衛星通信の利用や中継設備の共同化による強化などできることは少なくないはずである。そういう一つ一つの問題を住民が参加した場で徹底的に議論しながら復興への展望を作り出す努力をしよう。

単独自治体ではどうしようもないことでも、複数の、あるいは以前から連携していた自治体との協力によって、できるようになることもたくさんある。経験の交流、専門家の育成、時間はかかっても備えておかなければならないことへの取り組みも必要である。ボランティア活動も、ボランティアの善意任せではなく、活動を支えるボランティア休暇、研修などの制度構築、医療関係などではかなり整備されてきている仕組みをもっと多くの分野に広げること、そうした作業の積み重ねによって、市民の自立的連携も育ち、国家依存のからくりに陥らない活動が可能になる。

いつまでも学校の体育館を避難所に指定するという状態を繰り返すのか、今度の能登地震の場合、比較的早く二次避難場所の確保がすすめられたが、数字合わせのような状況が解消されたとはいえない。能登は人口過疎地域での災害だったので、不十分でも都市部で二次避難場所の数は揃えられた。しかし、考えてみよう。予想される南海大地震、東京直下型地震など人口稠密地域で災害が発生した場合を。何十万、何百万の被災者をどうやって、どんなところに収容しようというのか。考えるだに恐ろしい。

最後に歴史の研究者として一言言っておきたい。マスコミも、美談と苦労話の収集に努めるのではなく、真剣に予想される事態に備えるためのキャンペーンを始めたらどうか。関東大震災の際、政府の肝いりで「美談」の収集が行われ、出版が企てられたという。そんなことを繰り返すのであれば、少しは過去から学ぶ努力でもして欲しい。たとえば、第二次世界大戦中には、戦禍を逃れて四十万にのぼる学童が地方に集団疎開させられたという。過疎化高齢化が進む現在の地方にそんな多数の児童を受け入れる力はないのである。

きつかわ・としただ

1945年北京生まれ。東京大学法学部卒業。現代の理論編集部を経て神奈川大学教授、日本常民文化研究所長などを歴任。現在名誉教授。本誌前編集委員長。著作に、『近代批判の思想』(論争社)、『芦東山日記』(平凡社)、『歴史解読の視座』(御茶ノ水書房、共著)、『柳田国男における国家の問題』(神奈川法学)、『終わりなき戦後を問う』(明石書店)、『丸山真男「日本政治思想史研究」を読む』(日本評論社)など。

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