特集 ●歴史の分岐点か2022年
瀬戸内寂聴先生と共に
指弾され、孤立する人の傍に居つづけること
弁護士 大谷 恭子
死刑囚と共に
瀬戸内寂聴先生と初めてお会いしたのは、1984年だったか、連合赤軍事件の永田洋子さんの控訴審の情状証人のお願いに寂庵を訪れた時である。
永田洋子さんは1982年に一審東京地裁で死刑判決を下されていた。山岳で12名の同志を死に至らしめたのは「猜疑心、嫉妬心、敵愾心」「女性特有の執拗さ、底意地の悪さ、冷酷な加虐趣味」だとして、永田さん個人の、しかも女性特有の資質にあるとして断罪された。これに当時の心ある女性が憤り、女性蔑視判決であると声が上がった。確かにひどい判決である。しかしこれはあの当時の世論を代弁したようなものだった。マスコミもことごとく彼女を責めた。同じく最高責任者であった森恒夫さんは逮捕後年を越えることなく拘置所で自死していた。なぜいつまで生きているのだと言わんばかりに、とにかく評判悪かった。この彼女を擁護してくれる人がいるだろうか。
私たち弁護団は一縷の望みをかけて先生にお願いした。先生は、戦前の女性革命家菅野須賀子氏、金子文子氏、伊藤野枝氏らの伝記を書かれていたので、もしかして理解してくださるのではないかと。初めて訪れた時、先生は支援していた徳島ラジオ商殺し冤罪事件の富士茂子さんの話を沢山された。再審決定はされていたが、すでに富士さんは無念のうちに亡くなられていて、先生は、司法に憤り、女性に対する偏見は裁判でも例外ではないことを理解してくださった。私は、初めてお会いする先生が舌鋒鋭く司法を批判するのを嬉しく聞かせていただいたが、ただし、内心、こっちは冤罪ではないけど大丈夫かな、とヒヤヒヤだった。
1986年1月24日、東京高裁で永田さんのために証言をいただいた。この日は、奇しくも幸徳秋水氏や菅野須賀子氏たち12名が処刑された日だった。先生は今日はその日であることを証言の冒頭で触れつつ、革命や大きく時代が変化しようとする時に陥る過ちにふれ、「自分がやったかもしれない」その時代の責任について証言していただいた。また、志を同じくしていた命を落とした仲間たちへの丁寧な思いも伝えていただき、それでもなおかつ人が人の命を奪ってはいけないことと同じように国家もまた人の命を奪うことはできないと明確に死刑廃止の立場を宣言してくださった。
先生は、高裁判決の日にわざわざ上京し、傍聴券交付の列に並び、傍聴人の先頭を切って裁判所に入っていただいた。私はこの時にはもう法廷にいてその姿をお見掛けしなかったけど、判決後に報道されたお写真を見て、その威風堂々としたお姿に感動した。
先生は、いつも社会から指弾され孤立する人の側にいた。弁護士になりたての頃に永田さんの事件で先生に出会えたこと、このことがその後の私の弁護活動の原点となった。幾百万の敵がいようと、私だけでも被告人のそばに居続けようと。私には先生がいてくれると。
以降、先生とお会いするたびに語りあったのは「愛と革命」。先生が書かれた女性革命家の、彼女たちをめぐる書かなかったエピソード。書かれたことはほんの一部で、著さなかったことのなんと多いことか、話すたびに新しいエピソードを聞かされた。そして、その後に続く私たちの時代の失敗に厳しくも寛容で、戦前を繋ぐ女性革命家は誰か、についての話もたくさんした。
これはつい最近のこと、先生が書かれた女性革命家のうち先生は誰に一番思い入れをしているのですかとお聞きした。先生は迷わず、菅野須賀子よ、と答えた。少し意外だった。今まで語り合ってきたうちでは必ずしもそうではなかったように思えた。私の、その顔を見て、だって、彼女は実際やってるのよ、実際実行したのは彼女だけ、と明快だった。そうか、先生はやはりそこを基準にしているのかと、先生らしくて、誇らしく思った。
2000年、日本で日本赤軍の重信房子さんが逮捕され、弁護人についた。彼女が逮捕されたその日の警視庁の接見室で、ベイルートに娘メイを置いてきている、自分が日本で逮捕されて娘の身も危険にさらされる、迎えに行ってほしいと依頼された。国際指名手配されている身で日本領事館に出生届を提出できず、無国籍のままだという。無事翌春に日本に連れてくることができたが、なんと彼女がまだ幼子だったころ、仲間に日本に秘密に連れ帰ってもらい寂庵の前に捨て子して、日本で育ててもらう計画があったとか。先生は、この話を、お寺が捨て子を育てて何が悪い、と茶目っ気たっぷりに語ってくれた。
重信さんとの面会に東京拘置所にお連れした時は、すれ違いざまに手を合わせる、見るからに強面のやくざさんがいたり、ツツーと近寄ってくる人がいるから何かと思ったら手を合わせながら、衣に触らせてくださいと言う人がいたり・・・拘置所の一般面会待合室はどこか世間から外れた世界だ。ここにいる人たちにとっても、先生は自然と手を合わせたくなるような存在だった。
メイさんを寂庵にお連れした際には、あなたはここの子になるはずだったのよと、面白おかしそうに、愛しそうだった。それからも、お会いするたびに、日本赤軍のこと、メイさんのこと、パレスティナのこと、沢山話した。先生は1991年湾岸戦争直後のイラクのバクダッドを訪問している。アラブ紛争について、それへの日本の関りについても強い関心を持ち発言しておられた。私は、それよりも少し前、永田さんの裁判のためにシリアのダマスカスに行き、難民キャンプで日本赤軍のメンバーに会っていた。一審の途中に、日本赤軍に奪還(超法規的出国)されてアラブで合流している坂東國男さんに会って証言を得る必要があったからだ。
アラブで彼らが何をしていたのか、寂庵でそんな話しができたことは今思えば至福の時間だった。先生は、どこか法を超越していた。合法非合法とか何かそんな基準ではないもので動かれていて、私のように、合法の世界に身を置きながら非合法を擁護しようとする者にとって、先生と屈託なく話せたことは、なんとかけがえのないことだったか。
先生は重信さんのことを書くつもりだったと思う。私も随分とおねだりした。結局は、誰かがきっと書くでしょう、それに任せましょうと実現しなかったけど、書いてほしかったなー
20年の刑が確定してもう会えなくなるという時にも面会に来てくれて、あなたが出てくるときは私は100歳、待てないわ、と言っておられたけど、今年5月が満期出所予定で、先日重信さんと接見して、出所したらすぐに寂庵に行きましょうと約束したばかりだった。もう少しだったのになー
2011年、永田さんが獄中で病死した。この一報は先生からいただいたと思う。察知したマスコミがいち早く先生に取材したのだ。長く患っていた永田さんをねぎらい、死刑の執行ではなかったことを安堵し、それでもその時の先生の言葉が忘れられない。業が深かったのよ、なかなか死なせてくれなかったのね、と。殺された仲間のこともずっと忘れていなかったんだと、ハッと我に返る気持ちだった。
それよりも前の1997年、1968年連続射殺事件の永山則夫さんの死刑が執行された。
2018年、オウムの死刑囚13人が一斉に処刑された。まるで、幸徳秋水氏ら12名への処刑のように、一遍に。私が弁護した地下鉄サリン事件の広瀬健一君も執行された。
私は、その度に、「センセイ―」と電話をし、近いところで寂庵を訪れ、お経をあげてくださいと、お願いした。先生は、お経はいらないわ、祈りましょう、と私の手を取り、先生の手で包んで下さった。
先生は、生前の永山さんを知っている。一審時、多くの知識人たちと一緒に、少年死刑囚だった永山さんの命を救うために運動をしていた。私は控訴審からの弁護人だったからその時の先生を知らなかったが、控訴審でいったんは無期になり、最高裁で死刑になっていく過程を先生は知りたがり、語り合った。そして処刑後引き取った膨大な遺品の中から先生の直筆の永山さんあての手紙を見つけた時は、何か宝物を見つけたように思い、先生にお返しすべきかどうかお聞きした。先生は、手紙は出したら私のものではない、と返還を求められなかった。
オウムの広瀬健一君の弁護人となった時は、随分と先生に宗教について教えていただいた。当時は、寂庵にこっそりかもしくは公明正大にか、脱退者が来ていたり、改宗のための相談にのっていた。今では信じられないくらい、当時はオウムを敵にすることは命がけだった。なんせ弁護人にも弁護士会が保険をかけたくらいだ。その中で先生は、必要な人に必要なことをするだけと、躊躇いがなかった。
先生は、宗教が社会から逸脱することがあることを認めつつ、でもオウムの過ちについては、社会の変革時の過ちに比べ、少し厳しかったように思う。宗教者だからか、麻原氏の「うさん臭さ」を許せなかったのか、あるいはオウム幹部に女性がいなかったからか・・・なんて思い過ごしかな。
私は、寂庵の庭の小さなお地蔵さんの前に、永山則夫さん、永田洋子さん、広瀬健一さんのために、その都度、小石をそっと置かせてもらっていた。そのことを長く先生には内緒にしていたけど、ある時打ち明けたら、少し呆れた顔され、でも、みんなまとめて供養してあげるわ、と笑って言って下さった。きっと先生は、冤罪を晴らす前に無念の死を遂げた富士茂子さん、先生が著した処刑や虐殺された女性革命家たち、永山さんたちや非業の死を遂げた多くの人々の、常にそばにいて下さったと思う。
少女・若年女性と共に
先生が90歳を超えた頃から、終活の話をするようになった。寂庵をどうしたらいいかねー何か女性のために残したいね、考えな、と言って下さった。寂庵は宗教法人だけど単立寺院で先生の後を継ぐ人がいないことをとても心配されていた。私は、それなら、先生、罪を犯した女性のために何かを、と提案させていただいた。
先生とはいつも社会から批判され、孤立する女性たち、とくに罪に問われている女性のことを話してきた。先生は、自分もいろいろしてきたけど刑務所には入ったことないし、どういうわけか教戒師の話は来なかったし、富士さんには悔しい思いのうちに死なせてしまったし、何かできることあるかねーと言って下さり、私は、こういうことはお役人に聞いた方がいいと思い、障害者施策で出会っていた村木厚子さんに相談した。厚子さんは、早速法務省の信頼できる女性を紹介してくれた。法務省から帰ってきた答えは、罪を犯した女性も孤立し困難な状況にいるが、実は今、少女たちが厳しい、今なんとかしなければ大変なことになる、とのメッセージをいただいた。
日本の少女たちがタイヘン?実は私も随分少年事件をやってきたが、近時の少年事件で出会う少女たちとの距離の難しさを実感していた。でもそれはたまたまの経験か、自分が少女たちと年齢差があり過ぎるせいかと思ってきた。まずは現場の話を聞こうと、少年保護の現場や少女や若年女性を支援している団体からヒヤリングをした。そこで聞かされた実態は、日本の抱える問題や闇が集約されているかのよう。幼少時からの家族からの虐待、学校でのいじめ、家庭の貧困、自己評価の低さ、承認欲求、安易なネット社会、待ち受ける風俗等々。私は、これらの話しを先生に報告した。
でも先生は、私も当初そうだったように、イマドキの女の子ははちゃけてて、好きにしているのではないの、と半信半疑だった。風俗の話は、それは昔からあったもの、文学の世界で語られるものも、京都のお茶屋で見聞きするものも、先生にはなじみ過ぎて、そこに若い女の子が?90歳を超える先生に今の10代の少女たちが抱える問題を理解していただけるだろうか。先生の回りにいる子はきっと明るくて、元気な子たちなのではないか。実際、この少し前から、先生には当時まだ20代前半のとっても素敵な瀬尾まなほさんが秘書に就いていた。彼女を見る限り、日本の少女や若年女性の未来は明るい。
私は寂庵に行くたびに、まなほさんも交えて、私は私自身が知ったばかりの情報を提供し、話し合った。村木厚子さんご夫婦や、元少年院で勤務していた少女の実態を知っている人を寂庵にお連れし、実際のところを語ってもらった。先生は、最後は大谷のやりたいことをやればいいと、言っていただいた。
どうやら私は人を説得するときは夢中でするが、いざ実現しそうになると動揺する癖があるようだ。先生が乗り気になってきたら、イヤーこれは大変なこと、よくよく考えた方がいい、と迷いを打ち明けた。すると、今度は先生が、何言っているの遠慮するな、思い切り私の名前を使えばいいのよ、まだそのくらいの旗振りくらいはできる、と背中を押された。
2016年4月、困難な中にいる少女や若年女性を支援する若草プロジェクトを立ち上げ、先生が代表呼びかけ人となり、私はその法人の代表となった。
キックオフの研修を寂庵で持った。小さなお堂にぎっしり、全国から各地で女性支援に関わっている活動家が集まった。先生は、お堂に集まった活動家の顔をしげしげと眺め、いい顔しているねー闘う女の顔は生き生きして見てて気持ちがいいよーと嬉しそうだった。それからは毎年ほぼ2回、春と秋に寂庵で研修を持った。そのたびに先生から冒頭のあいさつをいただき、参加者は大いに元気をもらった。先生も、熱心に討議に参加する女性たちの顔を見て、エネルギーをもらっているようだった。ただ、いつも参加者の平均年齢が高かったことを、面白そうに、若草じゃなくて枯れ草だねーなんて笑わせてくれた。
若草プロジェクトは当初は現場で若年女性を支援している人を支援する、支援者の応援団の側面が強かったが、ライン相談をはじめ、シェルターとして若草ハウスを持ち、どんどん拡大していった。私は、毎回の研修で先生に支援者を応援してもらうことはとても嬉しかったけど、直接困難な状況にある女の子たちに会ってもらいたかった。先生はまだ困難な中にいる少女たちに会っていない、話しとしては理解していただいているが、きっとどこかで、そんな子たちどこにいるんだろうと思っているのではないかと心配になってきた。先生に応援してもらってできた若草ハウス(シェルター)には、実父からの性虐に苦しんでいる子、幼少時からの虐待のトラウマに苦しんでいる子、次から次に困難な状況にある子が入ってきていた。私は、シェルターの子を寂庵に連れて行き、先生に面談してもらった。
若草に来るまでに何があったのか、実父からの性虐、リストカット、オーバードーズ、先生は若い女性が語ることを一言も聞き漏らすまいと真剣だっだ。一緒に聞いてくれたまなほさんも目頭が熱くなっていた。先生は、そっと彼女のそばに行き、彼女のリスカに傷ついた手首に手を当て、もう大丈夫よと、そっとそっと愛撫してくださった。先生の手にはどんな言葉より強い力がある。私はそれを知っている。先生が、全身で彼女を包み込もうとしていることを感じた。彼女も泣いていた。
それからは、ハウスの子たちはどうしてる?と寂庵に行くたびに聞かれた。そして、コロナで寂庵研修ができなくなって、先生にビデオメッセージをいただきにあがったときには、しっかりとハウスの子たちに「元気にしてる?生きるのよ。女に生まれたことを不幸に思わないでね。いつか変わる、あなたたちなら変えられる。」と力強いメッセージをいただいた。
私は収録の場にいて、それまで色々質問させていただきながら最後にハウスの子に一言、とお願いしたとたん、先生はカメラのレンズにしっかり向き直り、カメラの向こうにいるだろうハウスの子や困難な状況にある子たち、ひとり一人に、そこに彼女たちがいることが見えているかのように、私の最後のお願いよ、と語りかけるのを聞いた。私は泣き出したくなった、まるで遺言のようだったから。2020年夏のこと。このとき先生は私は99歳(数え)と言われていて、本当に遺言になってしまった。
コロナで寂庵研修ができなくなり、それでも折に触れ、先生のところにはうかがわせていただいた。その折、なかなかみんなが寂庵にうかがうことが難しいので、東京に新しく少女たちの居場所として作る「まちなか保健室」を、先生が応援してくださっている場所だと言うことが分かるものにしたいと申し入れをした。その提案に快く応じて下さり、先生は、何が必要なの、みんなが集まるなら大きなテーブルが必要だよね、もう使っていない執筆用のデスクがあるからあれはどう?、本棚もいるよね、と次々に提案をいただき、その居場所の名前も「る寂」にしようと名前までいただいた。
執筆机はとても大きく、優に6人掛けのダイニングテーブルに使えるもの。何やらドイツで衝動買いしたというとっても素敵なデスク。先生がこぼされたインクの染みも嬉しく、使いこなれたものだった。亡くなられた半年前の2021年4月、新しく秋葉原に開設した「まちなか保健室」に送られてきた。今も毎日、この机で少女たちが勉強したり、語り合ったり、おやつを食べたりしながら過ごしている。
語り続けたこと・語り遺したこと
先生とは40年近く、事件や死刑や少女や若年女性について語り合ってきて、本当によくしていただいたと心から感謝している。語り合った内容はしんどい内容が多かったけど、でも実はお会いするたびにとっても楽しくて、一回一回の会話の内容は面白おかしすぎて、殆ど覚えていない。
その中で唯一継続して私たちの話題となったのが、実は皇室情報。時代と共に、美智子さん、雅子さん、愛子さんと対象は変わったけど、情報通で、それぞれお一人お一人を案じておられた。彼女たちも、孤立し、時に世間からバッシングされ、先生をして絶対に護らなければならない存在だったのかもしれないが、ただのミーハーで、天皇制云々というより一女性として、単純に熱烈なファンだったと思う。そして実は私も先生とそんな話をするのが好きで、盛り上がった。先生、愛子さんの立派なお写真、ご覧になりましたか。安心してくださいね
心残りなのは、先生と優里さんのことをもっと話したかったということ。私が目黒の結愛さんの虐待死事件を引き受けたことを知り、大谷のやることは応援するよ、でも母親が子どもを見殺しにするのは理解できない、と言われ、今度ゆっくり時間下さい、とお伝えしたままだった。コロナで見送られた2020年の4月の寂庵研修は、「児童虐待とDV」だった。この時には、先生とお会いして是非とも語り合いたかったが、かなわなかった。先生なら絶対に理解してくれるはず、DVは、配偶者も子どもも殺す、家庭という密室で夫の子どもへの暴力を止められなくなったのは、先生、連合赤軍の山岳の仲間殺しと同じでした・・・
今度、彼岸でお目にかかりましたら、またたくさんお話しさせてくださいね。土産話がたくさんあります。
おおたに・きょうこ
1974年早稲田大学法学部卒業。1978年弁護士登録。1991年~2018年日本女子大学非常勤講師(共生の法律学)。1999年~永山子ども基金代表、2016年~(一社)若草プロジェクト代表。
【関わった主な事件】
小泉よね強制代執行取消事件/永山則夫連続射殺事件/永田洋子連合赤軍事件/金井康二自主登校事件/アイヌ肖像権裁判/地下鉄サリン事件/重信房子ハーグ事件/目黒区児童虐待死事件等。
【著書】
共生の法律学(有斐閣)/死刑事件弁護人(悠々社)/共生社会のリーガルベース(現代書館)/それでも彼を死刑にしますか(現代企画室)など。
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