コラム/温故知新

“今ちゃん”と下町の労働・社会運動(2)

東部一般統一労組の結成—中小企業労働者の組織化と争議

現代の労働研究会代表・元江戸川区労協事務局長 小畑 精武

“今ちゃん”は詰襟(つめえり)で労働運動を始め(1957年)、北村区労協議長がすすめた地域労働運動を発展させ、さらに区労協青年労働者による青婦協を組織。60年代初頭に江戸川区労協(地区労)は「懇親」区労協から「運動」区労協へと発展していった。(前回)

今泉 清さん

今回は今ちゃんが活躍した60年代前半の江戸川に焦点をあててみよう。60年安保闘争でも今ちゃんは労働者のデモに参加すると同時に青年労働者のデモにも参加していた。江戸川区労協の青年労働者を三池炭鉱争議支援に青年労働者の現地派遣をすすめ、帰京後には報告会を開催して活動家をつくっていった。当時の総評、東京地評は労働組合の組織化方針を具体化し「一人でも必ず守る」総評全国一般東部一般統一労組(東部一般)を東京東部・江戸川で結成(60年12月)中小企業労働者の組合づくり、組織化が本格化していく。

1 中小企業労働者の組合づくり

① 戦後労働運動の出発

戦後労働運動の全国的展開は1945年8月の日本の敗戦直後から戦前の労組活動家、社会主義者によって始められ、49年の労組組織率は53.8%(労働省)と過半数を超えるにいたるが、大半は大企業、官公労労働者の組織化であった。中小企業労働者や臨時工など今日でいう不安定・非正規雇用の組織化はスムースにはいかなかった。

戦後の雨後の筍のような労組組織化は49年をピークに下がりはじめ、50年には総評が結成される。しかしレッド・パージ(50年7月)の嵐が吹き荒れ1万人以上の共産党とその同調者が職場からパージ(追放)され、労組組織率は激減していった。

戦後の日本経済が朝鮮戦争のなかで復興し、55年7月には地域の中小労働者の労組の全国連合組織として総評全国一般労働組合が結成される。

② 総評が中小対策オルグを配置

総評は55年にはじめての春闘(8単産共闘)を闘う。同じ年に組織強化・中小労働者の労働組合づくりをすすめるため、中小企業労働者対策オルグを「日本労働運動の戦略的課題」として全国に100名配置する取組を開始した。そのために中小組織化10円カンパを決め、61年には「中小企業労働運動必携」中対オルグ会議を鎌倉建長寺で開催。58年の総評「組織綱領草案」にも「地区労を母とし地評(県評)を父として」組織化をすすめる方針が示された。そこで未組織のままになっている中小労働者の実態にかんがみて、地区または地方に合同労組をつくる方針を打ち出した。

東部一般統一労組の誕生とメーデー参加

東京地評(総評)の水野邦夫オルグはすでに地域で合同労組づくりを始めていた広島一般を研究し、一人でも加入ができて、労働組合本部が団体交渉権、団体行動権(ストライキ権)を行使する統一労組方式を取って60年12月に総評全国一般東部一般統一労組の結成となる。組合員はわずか5人(東京地評・水野〈委員長〉、西田、地区労オルグ・今泉〈江戸川〉森谷〈荒川〉、橋本〈墨田〉)からの出発だった。今ちゃんは江戸川区労協事務局次長(専従)としてオルグ団に加わる。7人が結成に参加し“七人の侍“といわれたこともある。組織化は高度成長の風を受けて一年間でまたたく間に5000人を超え、地域の経営者から恐れられた。

③ 「運動体」区労協の専従オルグに

江戸川区労協は60年11月の大会で名称から「連絡」を取って文字通り地域共闘の「運動体」に脱皮していった。江戸川地区労運動の柱に「未組織の組織化」「争議支援」「地域最賃1万円」が据えられ、「青婦協」がその推進力となった。

水野委員長は、東部一般の特徴として、以下をあげている。

①企業の枠を離れた地域一般労組である

②プロの専従者を組織の中核とした

③東京の東部ブロック各地区労と青年部(特に東交、全逓、全金)の強力な連帯を得た。

「ロマンに生きるー地域最賃1万円を」

われわれがこのような組合を結成したのは、当時の中小企業の労働組合は常に激しい不当労働行為の攻撃を受け、既存の産業別組合はそれについての対応力が弱く、結成しても短命に終わるものが多く、新しい、力強い指導力がある組合が求められていたからである。不当労働行為に強い組合、それは日常の行き届いた指導、闘争財政力、動員力が必要であり、これを兼ね備えた組合として東部一般づくりが始まった」

今ちゃんは「俺が統一労組の専従をやるのもすぐ(地区労で)了解された。地区労といっても単産(企業別組合の産業別連合体)が上にあり、その下に位置する。それではだめで、地区に一線の活動家を配置し、少なくとも地区労が決めることに、各単産が最大限協力していくことが必要だとした。その考え方から、東部一般は生まれてきた」と単産の協力を強調している。しかし、総評運動の実体も、その後の連合運動の実体も「企業別労組ファースト」が実体で企業を超えた地域労働運動、産別労働運動ははるか彼方に浮かんだまま、連合結成30年たった今日も変わらない。

2 組織化と争議

① 全国一般労組の結成(55年)

全国一般労組が結成された時、今ちゃんは18歳で直接携わっていない。57年には地域労働者の組織化をすすめることを任務に、江戸川区労協北村議長は今ちゃんを社会党支部書記も兼任するオルグとして採用した。区労協として組織化をすすめる体制づくりが徐々に整っていく。すでに地域では自然発生的に「争議」が始まっていた。今ちゃんが着任して1年も経たない58年5月には千葉街道わきのまだ田んぼが広がるなかで泥仕合の殴りあいとなった山葉精器争議が展開されている。組織化に争議は付き物。その後も組合結成⇒争議があいついだ。

「今ちゃんのところには第2組合ができない」という神話があった。本人は「最初の一発をなぐって、不当労働行為となる第2組合をつくらせない自己批判をさせ一筆を取った」と“弁明”している。だんだんと警察も目を付け、最後の一発は刑事事件になった。「自分でなく、Tが会社側を殴ったのに、今ちゃんが殴ったと言い張る会社。Tがやったと真実を言えば仲間を裏切ることになる」と真実を言えないまま、今ちゃんは起訴されることになった。

被告期間が切れると、あっ、また何かやるぞといわれ、事実、すぐ被告となった。それでも今ちゃんの「人生3分の1は『被告』だった」は少し大げさではある。

② 組合員がいなくてもストライキ

さらに、分会結成にともなう経営者による労組介入・不当労働行為を追及する東部一般の姿勢は徹底していた。平井にあった袴田金属(300人)では、63年の分会結成時に警察・機動隊が介入の機をうかがっていた。組合づくりが会社にばれて呼び出され全員が脱退、組合員が一人もいなくなった。翌朝から3日間、支援労働者400人が会社前でピケットストを展開した争議もある。小松川警察が会社情報により「組合員がいないのに、ストができるか」と介入を開始、今ちゃんは「秘密組合員がいるから合法だ」警察「名前を教えろ」今ちゃんは「名乗ったら秘密じゃなくなる」とねばった。こうした正義感溢れる魂と行動は後々までも「一人の首切りを許さない」下町労働者のモットーとして継承されている。

③ ヤクザと談判

前後するが、有罪の判決を出した裁判長が今ちゃんとともに、中田久義区労協事務局長(名古屋精糖労組東京工場支部委員長)にも有罪判決を出したものの同情をしてくれた変わった争議が1962年にテレビ販売のH社で起こった。今ちゃんはまだ若干24歳、怖いものなしの血気盛んな年頃だった。

H社は関東一帯に販路を持っていた。そこに突然裁判所の執行吏が全金庫に差し押さえの赤紙を貼って帰っていった。倒産だ。賃金不払いとなり、一時金、退職金などの要求を今ちゃんは中田事務局長、当該労働者代表と相談し要求書にまとめ、同時に団体交渉となる。組合員は翌日から売掛金の集金にまわり総額600万円(当時)を集金した。ヤクザの親分が介入、今ちゃんは「組員がこんなめに会ったら黙っていますか?」と詰め寄った。親分は「分った、ごちゃごちゃいうな。金なら出してやる」とポーンと50万円(当時)を投げ出した。そのお金は組合員と組合の宣伝カーになった.

事件は会社が分会長、中田事務局長、今泉オルグを裁判所に訴え、組合の敗北は必至。組合は「法にふれないやり方が他にあるのか?」と分会長が申し立て。裁判官は「君たちの真っすぐな気持ちはわかる。しかし、法は法」。無罪にはならなかったが「もう少し分別をもって行動してください」と優しかった。

後年(1972年3月)今ちゃんが区労協議長になって進めた区長準公選条例制定運動でも条例審査の法定期間を無視した区選管と区長選任を強行した区議会を追及して地域の労働者、区民とともに区議会議場を占拠、不退去罪で起訴された。この事件が35歳、今ちゃんの人生最後の逮捕となる。(当時江戸川区労協オルグだった筆者も起訴された)(区長準公選運動については次々号掲載予定)

未組織の組織化と地域最低賃金 

協定書「地域最賃一万円」

「未組織の組織化と地域最賃」について今ちゃんは後輩たちに以下のように語っている。「江戸川は柱として『中小争議』『地域最賃』『未組織の組織化』を掲げていた。江戸川区というのは半農半漁の労働者が労働力となったわけで、南部(東京)と比べ2,3割賃金や労働条件が低かった。京浜でいう工場労働者と違い、松戸(千葉県)の農民とか浦安(千葉県)の漁民が賃金はどうでもいいという形で半農半漁のまま安い労働力としてあった。

したがって、地区労としては、どうしても賃金の歯止めが必要であり『一万円以下の労働者をなくそう』と地域最賃の闘いを重視し、自治体への請願もやった」区議会で決議し、区役所の臨時職員の30人の最賃を1万円に是正させた。区労協に結集する区内中小労組と会社が最賃協定結んだ。しかし、この地域最賃闘争は高度成長とその後のインフレにより賃上げに地域最賃が追いつかず、最賃決議はしたがその実行を迫る運動が弱かった。最賃闘争としては行き詰まっていく。

居住地は9割が職住一致、全金曽我製作では全員が区内だった。そうした地域に密着していた区労協青婦協から一本釣りでオルグを引っ張り出して、活動家づくりも区の南部東京湾や国鉄(当時)の寮に泊まり込み合宿、そこから出勤したこともある。中小民間労働者の寮に一升瓶をもってオルグに入り労働組合を説明し活動について話し込みオルグをすすめた。

当時、60年前後は民社党が安保に賛成して社会党から分裂誕生。青年層にも社青同(社会主義青年同盟)が誕生し、労働組合にもそのエネルギーが持ち込まれた。

帆が上がった東部一般に61年4月に最初の分会が公然化する。もちろん今ちゃんは全力を尽くす。「組合結成反対!反対!」と大男の社員が大声で叫ぶ、そしてドスをふり回して今ちゃんに向かう。「今ちゃんはひるまない」「ドスを突き付けられてもひるまない」すると大男はドスを静かに引っ込めた。勝負はついた。その後、東京工機、岡崎ラジオ、昭和高圧など100~200人の会社で東部一般への分会結成があいつぎ、1年間で5000人の組織化がすすめられた。大男に今ちゃんは気に入られ、大男は東部一般に加入し、やがて拡大する東部一般の執行委員となり、後に墨田区議にもなった。

パトカーよりも早く

K社の周辺は中小企業が多く、住民も多い。区内ではちょっとした繁華街だった。そこに東部一般の分会が次々とつくられて、いつしか「東部一般横丁!」といわれるようになる。分会には笛が常備され、笛吹けば飛んで来れそうな距離にあり、不当労働行為を告げる笛が鳴ると「パトカーより早く」支援に駆けつけることができた。

61年9月には永年の悲願であった“労働会館(区労協事務所)”が区役所裏に建設された。(前号参照)“会館”といっても事務室、40㎡ほどの会議室と8畳間の和室があったが、便利な区役所の真裏にあり、昼間から近くの組合員が寄ってきてごろごろする場面もあった。筆者も近所の組合員と何回か呑んだあとに、泊まったことがある。泊まり込んで生活も一体化、みんなは兄弟姉妹。理屈ではない連帯の絆がつくられていく。当時のほとんどの分会が今では工場移転や倒産、廃業などでなくなり、わずかに最初に分会ができたK社の継承会社に昔日の面影を残している。

【参考文献】

「ロマンに生きるー江戸川区労協の30年のあゆみ」(江戸川区労働組合協議会 1983年)

「統一労組運動のあゆみ」 同刊行委員会(1986年)

「半世紀のロマンー江戸川区労働組合協議会結成50年・江戸川区労働組合センター発足10周年記念誌)(江戸川区労働組合センター 2002年)

「草志-森谷新の生き方 地区労、区議会、町内会長、現代書」(自費出版)

「中田久義 元江戸川区労協事務局長、元江戸川区議の証言」(2018年に収録)

おばた・よしたけ

1945年7月九州生まれ、東京、小倉、大阪で育ち、64年東京教育大学史学科入学。教育大闘争に参加、卒業。69年12月江戸川区労協オルグに。東部一般統一労組書記長・区労協議長の今泉さんと出会う。東部一般統一労組の支部執行委員を兼務。72年1月「区長は区民の手で」をかかげて区労協は「区長準公選条例直接請求署名」地域運動の先頭に立つ。6万8千筆を集めたが区選管は無視、今泉議長と区労協組合員は法無視の区議会議員に抗議し議場を占拠、今泉、小畑が逮捕・起訴される(罰金5000円。詳しくは続編で)。84年3月「ふれ愛・友愛・助け愛」「一人でも入れるユニオン」をかかげて江戸川区労協は労働組合江戸川ユニオンを結成、書記長。翌年コミュニティユニオン全国ネットワーク事務局長。87年区労協事務局長。92年6月自治労中央本部・産別建設センター事務局長。公共サービス民間労組協議会事務局長。現在「現代の労働研究会代表」「現代の理論(デジタル)編集委員」、労働ペンクラブ会員。

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