連載●池明観日記─第9回

韓国の現代史とは何か―終末に向けての政治ノート

池 明観 (チ・ミョンクヮン)

(2011年つづき)
≫騒々しい韓国≪

今日の朝鮮日報に10ヵ国多文化家庭の子どもで構成された‘レインボー合唱団’48名の団員が、さる12日、仏教歴史博物館の舞台で‘平素のように歌おう、緊張しないでスマイル’でといいながら歌ったと出ていた。この合唱団は‘中国、日本、ナイジェリア、イラク’など10ヵ国多文化家庭出身の幼稚園から中学校3年までの子どもたちによって構成されているという。創立されて3年しか経っていないけれども、“毎年10余ヵ国公演をしながら韓国の中にある多文化家庭を知らせている”というのである。李ジョンヒョン団長は‘皮膚の色、衣装が異なる子どもたちが舞台に上がって歌えばそれ自体が全世界の和合と希望へのメッセージ’といいながら‘来年はオーストラリアなどの海外公演も進めている’といったという。

単一民族の国であるとそれを誇りにもしているように見えたこの国がこのように変ったといおうか。韓国ではこのような変化を見せびらかして宣伝しているようにも見える。このような面でも韓国は日本とは違うような気がしてならない。韓国では多文化家庭の話を毎週定期的にテレビに放映して楽しんでいる。このプログラムでは毎回一つの家庭の夫婦を選んでは東西アジアなどの実家を訪れる光景を放映するのであるが、この国の国民はそれを別に違和感なしに楽しんでいる。それを在日の同胞たちが興味深くながめていたことを思い出す。日本では韓国の場合よりももっと国際結婚が多いようであるが、それをあまり公けにしないのではなかろうか。

そういう現象があってもそれをあらわにせずに放任しておくのが日本式ではなかろうかと思われる。韓国の場合はそれを表面化し、みんなの目にさらして慣れさせようとするのではあるまいか。日本ではそういうのを例外のものとしてそっとしておくとすれば、韓国ではそれを公式化してできるだけ積極的に受け入れさせようとするのであろう。日本ではまだできるだけ単一民族という虚像をそのまま保とうとしているのかもしれない。いずれにしてもテレビに出したりして公式化しようとはしないように見える。

両国のあいだにおけるこのような差異はアメリカとヨーロッパの違いでもあるかもしれない。アメリカはやはり南北戦争一世紀半で黒人大統領を選出する国である。これからの歴史を考えながら韓国はどうしてこのように開放的であろうとするのかと考えるようになる。中国文化の影響を受けながら理念的一致を重んじ実は血縁的一致にはそれほど固執しなくなったというのであろうか。しかしこのような傾向はごく最近になって現れた現象ではないか。

もう一つ考慮しなければならないことがある。日本統治時代のことであるが、1920年代の初めの頃新聞に北朝鮮の国境近い地方にある派出所が独立軍によって襲撃されたという記事が出ていた。新聞はたとえ小さな記事であろうと新聞にのせたかったのであろう。いくら小さくても記事にできればそれは民衆の間に大きく伝わるであろうと思われたからであった。そのようなことは今でもありうることである。1960年4・19の時も新聞記事とはそういうものであった。

日本の場合は記事として取り上げないで無視すれば事実が不在となって消えていくと考えているのかもしれない。このような方式で事実を抑圧しそれを不在化してしまうことができる。事実と新聞記事との関係について日韓の場合を比較検討して見ることも必要であるのではなかろうか。(2011年11月14日)

東京・明石書店のK編集長より11月27日大阪知事と市長の同時選挙においてポビュリスト的な政治家が二人とも当選して大阪を東京と同じような都に昇格させようと右翼的な行政が布かれるかもしれないという憂いが深くなったという連絡を受けた。それで私は電話で日本ではポピュリズムは右に向かうが韓国では左に向くのだといった。

日本にイギリスの政治学者が来て国民の善意志というものを信頼してはならない、民主主義を志向するためには民主的国民教育、民主的政治エリート教育が必要だといっているという。民主主義に危機が迫ってきているのは間違いない。危機を前にして半暴力的極右、極左の勢力が台頭する。そのような国民の雰囲気を教育という手段をもって克服するというならば、とても穏健な復古的理想主義または常識をたてまえにした考えであるように見える。確かに穏健な民主主義を求めて社会を整頓するということを誰も否定はしえないのであるが。

わが国ではこの頃、朴正煕(パク・チョンヒ)の娘、朴槿恵(パク・クネ)が登場して朴正煕を回想させようとすると、若い人びとの間では南北問題を取り上げながら左翼の方に向かおうとする。そういう様相のなかで朴世逸(パク・セイル)のように中道を目ざす勢力もあるが、それがつぎの選挙までその勢力を維持して勝利しうるだろうか。今日の北東アジアの混乱、アメリカを中心とした秩序の動揺そしてユーロの沒落など、このような状況の中で政治はどのように動くのだろうか。日本では危機が来れば右翼が憂国勢力として登場するというのが慣例であったのだが、そのような政治風土を乗り超えることが果たして可能であろうか。南の韓国では終戦後いつも左翼に対する郷愁を抱いていたのではないか。

私は現代の病弊に対応していろいろな方法が模索されるであろうと思いながらも、どうしても社会の動揺、極端主義への動揺は避け難いような気がしてならない。もっとも重要なことは民主主義的な社会的な寛容を許容しながらも、社会の総体的崩壊を防ぎうる強力な統治機構を維持できるかどうかではなかろうかと思っている。そして沈黙している多数の支持をかちうることができなければならないのだが、それが可能であろうか。それでこのための新しい政治学が模索されねばならないと思うのだが、それはほんとうに至難な課題であるといわねばなるまい。韓国の場合もこれを前にして当惑しているといわねばなるまい。

日本も未来を展望しうる方法を手にしないまま政治勢力が茫然としているもようであるが、韓国でも国会でガス弾が爆発し、それこそモブ(mob、群)が起こって警察の首をしめてもどうしていいのかわからないという情況である。法院では立法府の自由を唱えてイデオロギー的判決を平気で言い渡しているではないか。しかし非常に明白な状況が目の前にあるといえよう。右であろうと左であろうと過去のようなモブは許されないのがアジアの情勢というべきではなかろうか。過ぎ去った時代のような例えば日本の軍国主義のようなものなどはありえないとする北東アジアの平和の時代が目の前に来ているのではないか。

韓国における左翼感傷主義的な極端な姿勢などはこのような歴史的現実に当面して泡のように浮き立っているより致し方がないのではないか。そのためにこの時代に対する現実的で哲学的な論説が展開されなければならないし、何よりもそれをはっきりと伝えうるメディアがなければならないと考える。少なくともヤスパースの『この時代の精神的状況』(Die geistige Situation der Zeit,1931)のような著作がなければならないのにと思うようになる。

じっくり考えれば今の若い人はわれわれの世代と異なるといわねばなるまい。朝鮮戦争が起こった1950年に10歳であったとすれば、すでに70を超えている。彼は日本の植民地時代も知らなければ朝鮮戦争も自覚的年齢としては経験していないわけである。50歳以下であれば1950年の6・25の時には生まれてもいない。朴正熙時代という1961年以降の軍事政権の時代についてもそのようなことが言えるであろう。それに朴正熙の残忍性のことなどは国内では隠されてきたではないか。歴史的経験にこのような隔たりがある。1919年の3・1独立運動に血を流した先輩と私たち後世の者たちとの間にあるような距離である。

それに韓国人のわれわれは歴史とか国際情勢に対して理性的に考えることのできる教育も受けていないといえよう。事実がだいぶ歪められ、歪みにおおわれた教育を受けてきたのではないか。そういう歴史が今日のわれわれにネメシス(復讐)を加えるといえるかもしれない。それにわが国民のあいだでは不満と批判の意識がものすごく強いといわれるのではないか。われわれは今まで歪められてきた歴史意識の代価を支払わねばならないのかもしれない。

それに経済的に日常生活を営むのに十分な報酬を支払う職場すら十分でない経済事情なのに、政府の機関では年俸50億ウォン(注:日本円では約5億円)で人を迎えるというではないか。このような格差を当然であるとする統治スタイルでいかに国民統合をなしうるというのであろうか。明日は12月1日、今年も暮れて行くというのに。(2011年11月30日)

≫老醜の美学≪

これから本を書くという計画が私にはない。晩年にこの断片でも『私の政治日記』の続篇として出版することができればと思っている。その後の読書は趣味としては楽しいものの、別になすべき仕事とかとは関係がないといえよう。久しぶりの自由な読書といえるかもしれない。

そういうことと関係があるのだろうか、与党のハンナラ党も野党民主党もあんなに騒然としているのであるが、私にとっては別に関心を持つことなどはないといわねばならない。政権は与野の間に交代するのであるが、そこに進歩とか保守とかイデオロギー的に差があるわけではない。いまあのように政党間で騒がしいのはすべて選挙のための騒ぎに過ぎない。政治にたずさわる者はあのように騒ぎ立っていて齢を取れば舞台から退くだけである。

そのために新聞も全党大会で誰を党首に選ぶかについてなどにはまったく関心がない。私の政治日記なども意味のないものではなかろうか。ただ‘老醜の美学’のようなものを私自身のために最後の作業として残すことができればと思った。日本語で書くとすればどうかなあと思った。読んでもらうよりはただ書き残すのだ。すべてが無に帰すると思いながらのものである。長いこと日本の社会では老いは醜いと考えてきたではないか。彼らは武士社会であるからそのように考え、そのように生きて来た。夭逝を讃えながらである。

韓国では夭逝は親不孝であると呪ってきたのとは反対であった。それにもかかわらず日本はいま世界第一の長寿の国ではないか。それはアイロニカルなことといわねばなるまい。韓国も相当な長寿の国といわれるが、自殺率は世界一といわれる。老人をさげすむということはどこでも拡大している。ともかく死の問題を考えてみたい。日本にはそれに関する書籍がかなり多いと思えるが、これから私はアメリカに行くことになればどうなるのだろうか。いずれにしてもそのようなことを老いの目で整理してみたい。(2011年12月8日)

盧明植(ノ・ミョンシク)が彼の全集第4巻『民族主義と民族主義運動』に収録した‘イタリア  リソルジメント研究’でいっていることばが興味深い。1859年から60年にかけてのイタリア統一のことについての記録であるが、彼は当時イタリアにおいて差別を受けていたイタリア南部地方についてこのようコメントを加えたのであった。“その結果、野党は政治的な野党ではなく、結局地方的野党あるいは社会的宗教的野党になってしまった”。“ピエモントでは指導層の人士たちでさえ南部の奴らは卑しい奴、自由がなんであるかも知らない野蛮人たちであり、ナポリは骨の髄まで汚れて汚い……”といっていたという(p.272)。このような‘無知と傲慢そして物質的な貪欲’のために南部では‘農民反乱’が起こったという。政権は、とりわけ脆弱な政権は自分たちの庇護勢力になりそうな地域をつくりだすものである。このような問題にかんがみてわが国の場合、つぎの選挙ではどうなるだろうか。半永久野党地区と半永久与党地区とが生まれてくるように見える。

もう一つこのような観点からながめると、南北統一の日に疎外されるであろうと思われる北の問題と韓国の民主政治の将来ということを考えるようになる。韓国の現代史はほんとうに多くの問題をかかえこんで今後どういう道を歩むのかと思わざるをえない。

ミルトンの『失楽園』を日本語訳で読んでいるが、その訳注につぎのようなことばがある。“自然にやがて地球を包む新しい宇宙が生じ、そこに神が創造した人間が住むという噂”。宇宙が自然にできてきただけではなく人間も自然的に生じたというのがサタンの世界観であるといわねばならない。それでこそ宇宙からも人間の生からも意味がなくなってくる。聖書的世界観はこのようなものを排除して宇宙と人間の生を意味付けようとしたといえるであろう。

私は日本の近代詩歌に対する文章を書きながら三好達治の戦争讃美の詩と彼の戦後における姿勢を論じながら、彼の戦後の詩として「我ら戦争に敗れたあとに」を引用した。そしてその中で‘我ら戦争に敗れたあとに、一千万人の赤ん坊が生れた’と詠んだことを指摘した。それは“歴史の意味など考えられないという虚無感からであったであろう”といってつぎのように続けたのであった。

“歴史は無意味であるという発想の中で、彼は彼自身の戦争参加を悔いることなど全くありえなかった。それは人生に対する意味の喪失そしてほとんど自暴自棄でその危機を生き抜こうとしたことのように思えてならない。”

いわばキリスト教的歴史観ではない自然主義的歴史観をもっていかにして戦争犯罪とか贖罪の問題について語ることができようか、と私は問題を提起しようと思ったのであった。この点をあげて今日も問題になっている日本の戦争犯罪の問題についてドイツと比較してみたいのである。(2011 年12 月11 日)

≫金正日の死≪

アメリカに行くことを計画している。韓国に居れば、韓国の現実と喜怒哀楽を共にするようになる。アメリカに行けばそのような気持ちからちょっと離れることができるだろう。特に何も心にかけることなく流浪したいという気がする。そうなれば死に向かって世俗に対する未練を一歩退けることになるのではなかろうか。自らこの世から離れる一歩になりうるのではないかと思うのである。押し出されるよりは自ら捨てるといってみたいという可憐な身悶えともいえようか。

今日ミルトンの『失楽園』を読んでいたら‘マンモン’(monmon)をサタンは如何なる宝物よりも賛美して“その冒涜無惨な手をもって母なる大地の肺腑を探り、そのまま秘められていてこそ然るべきであった数々の宝を奪取するにいたった”とあった。悪魔が擬人化されており悪魔を扱った学者たちは‘マンモン’を九階級の悪魔の中で最下級に位置付けたという。それであれば今日その‘マンモン’が人間の最高の目標になっているといえば、今日の人間は誰でも皆悪しきものといわねばならないのではないか。それだから人類は呪われるべき運命の前に置かれているというのであろうか。そのためにそのような転倒された価値観の否定なしには人類の救いはないというのであろうか。(2011 年12 月13日)

金正日が死亡したという。誰もが行く道であるがそれを一時でも止めてみようと力の限りを尽くしていたが、彼が考え及ばない時に死はやって来た。彼が考えていたよりも死がずっと早くやってきたとでも言おうか。いろいろと考えさせられる。17日の朝死亡したのであるが、19日の正午になって死亡の発表があった。全体主義社会ではこういうことがあると、事態を収拾するか事後対策をたてるのに大わらわであるが、そういう努力をすればするほど事態は没落の方向へと流れて行くのではなかろうか。そこには一般的な民主社会であれば持っているはずの自生力が欠けている。南の方は静かにこれを見守りながら、必要であれば少しずつ手助けを与えてやるべきではなかろうか。南のマスコミも今度はあまり騒がないでほしいと思うのだが。

全体主義社会はそのようなことを前にして正常的人間関係、社会関係を回復し難いのではないか。国民の間では今までの正常ならざる拍手をしていた姿からこれからは狂的に泣きわめく状態へと変わっていくに違いない。そのようにさせられているが、そのように非人間化されてもいるだろう。1947年に私が北朝鮮を離れる時もそうであったのに、その後いっそう非正常化され、そうでなければ生き残れない社会になったのではなかろうか。南の方でもそれよりずっと弱い専制体制の下であったけれども、そのようにならなければ生き残れなかったのではないか。朴正煕が死んだ時も正常ならざる喚き声がこだましたではないか。南北がいつまでそのような権力者の死の後遺症を患い続けなければならないのだろうか。

ほんとうにそれから正常的な人間社会に戻るまではどれほどの時間がかかるのであろうか。いままで与野党が対立して戦っているのを見ていると韓国人はまだまだその時代の余燼の中に生きているような気がしてならなかった。私はあのような政治権力によって非人間化されたところから人間へと進み、それから理性的な人間へと進むものであると考えた。理性的人間というよりは正常的人間といわねばなるまい。南の場合は全体主義ではなく専制主義的社会を生きてきたといえるであろう。朴正煕が布いた維新体制というものは、それでも形式的な野党または反体制的なものを存在させていた。しかしそのような専制主義体制から脱皮するために今日も苦しんでいるではないか。あの与野党の対立、その争いを見ながら私はそのような考えを反芻せざるをえない。(2011年12 月19日)

1947 年の春、北から南下してきた時、北において描き想像してきたのとはあまりにも異なる南の政治と社会を経験するようになって絶望した。それで我が国の社会は勿論人間社会はどこでもそういうものであると考えてこの世を諦めそれを遠ざけようとした。その一方で南で北に憧れる若い人たちをながめては、私は体制の違いを越えて彼らは北で南に憧れている若い人たちと同じではないかと思った。南は北を、北は南を思うこの二重経験をわれわれは一つになしうるであろうか。

私は南で1950年の朝鮮戦争を経験しては北と同じように専制へと流れる政権を前にして、イデオロギーを異にしながら敵対しているのであるが、実は南北の体制は同じ方向に向けて走っているのではないかと思った。しかし南には支配体制を否定する勢力が存続しているという点で北の全体主義社会とは異なる専制主義社会であるといえのるではなかろうかと思った。そして南では民主化の日が可能になるであろうと信じて民主化の戦いに情熱を尽くした。それはかよわい人間化ともいうべき道の始まりであった。それでも変化と発展を期待することが出来た。そして与えられた人生に感謝しながら生きようと努めた。今や人生の黄昏に至って過ぎ去った日々を感謝している。そして北の変化と発展の日を期待しながら。北が遅ばせながら南が歩んできた道を辿ることになることを祈っている。

このような時になれば我々の考え方に一種の乱れが出てくるのではないか。金正日の死に対して弔意を表することもありうるであろう。死を前にしてはその人生の是非を云々しないというではないか。南北問題のこれからを考えなければならないであろう。それよりも彼が民族のために犯した罪悪があまりにも大きいのではないかということもできるであろう。彼のような人生についてどちらか一方に組することは難しいものなのかもしれない。政府もその姿勢を決定するのに迷うであろう。どちらを選択しても反対する側からは批判が免れない。国際的先例を参考にすることはできないものだろうか。

こういう時は、判断は政府に預けておこう。そして野党とか民間団体は自由にその姿勢を決定していいだろう。他人に自分の考えを強要することはやめようではないか。それが民主社会のありようではなかろうかと思うのである。他人が自分とは異なる判断をするからというので非難し合うことはやめようじゃないか。北を訪ねたい人がいれば、北がこれを受け入れるとすれば、送り出してもいいではないか。自分が思うようにしてくれなければ声を上げて非難し、批判することはもうやめようではないか。多様な意見とは民主社会の在り様ではないか。私が主張しているようにしてくれなければ声を張り上げて戦う、という非民主的な風土を克服できればと思う。(2011年12月20日)

(続く)

池明観(チ・ミョンクワン)

1924年平安北道定州(現北朝鮮)生まれ。ソウル大学で宗教哲学を専攻。朴正煕政権下で言論面から独裁に抵抗した月刊誌『思想界』編集主幹をつとめた。1972年来日。74年から東京女子大客員教授、その後同大現代文化学部教授をつとめるかたわら、『韓国からの通信』を執筆。93年に韓国に帰国し、翰林大学日本学研究所所長をつとめる。98年から金大中政権の下で韓日文化交流の礎を築く。主要著作『TK生の時代と「いま」―東アジアの平和と共存への道』(一葉社)、『韓国と韓国人―哲学者の歴史文化ノート』(アドニス書房)、『池明観自伝―境界線を超える旅』(岩波書店)、『韓国現代史―1905年から現代まで』『韓国文化史』(いずれも明石書店)、『「韓国からの通信」の時代―「危機の15年」を日韓のジャーナリズムはいかに戦ったか』(影書房)

池明観さん日記連載にあたって 現代の理論編集委員会

この連載「韓国の現代史とは何か―終末に向けての政治ノート」は、池明観さんが2008年から2014年にかけて綴ったものです。TK生の筆名で池明観さんが1970年代~80年年代に書いた『韓国からの通信』は雑誌『世界』(岩波書店)に長期連載され、日本社会に大きな衝撃と影響を与えました。このノートは、折々の政治・社会情勢を片方に見ながら、他方でその時々、読みついだ文学作品、あるいは政治・歴史にかかわる書籍・論文を参照しながら、韓国の歴史や民主化、北朝鮮問題、東アジア共同体の可能性などを欧米の歴史・政治と比較しながら考察を加えています。

今回縁あって、本誌『現代の理論』は、著者・池明観さんからこの原稿の公表・出版についての依頼を受けました。第12号から連載記事として公開しております。同時に出版の可能性を追求しています。この原稿の出版について関心のある出版社は、編集委員会までご連絡ください。

  

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