連載●池明観日記─第8回
韓国の現代史とは何か―終末に向けての政治ノート
池 明観 (チ・ミョンクヮン)
≫ヤスパースとアーレント≪
14世紀初めの兼好の随想録『徒然草』を読んでいる。第1段のはじめにおいて「みかどの御位は……人間の種ならぬぞやんごとなき」となっているのに驚いた。僧侶は軽蔑されているといわれたけれども、武士はいつかはその道をいかねばならぬと思っていた。それは歳をとって武士の力を失えばいかねばならない諦めの世界であったであろう。子どもなどはいない方がいいと思った。聖徳太子もそういう考えであったという。40歳になる前に死んだ方がいいと思った。老醜をさらして生きていくことが、どうしていいであろうかというのであった。老いてなお生きて行くならば、それはこの世に執着する心のみ強くなって、情趣もなく生きて行くことではないか。なんとはかないことであろうかともいった。武士としての人生哲学がそこには深くしみこんでいると思った。
兼好は古いものはよくこの頃のものは品位がないと思った。古代礼讃は中世においては当り前の歴史観であった。そして末世に対する嫌悪は不可避的なものであった。「静かに思へば、よろづに過ぎにしかたの恋しきのみぞせむかたなき」であった。それで古くなったといって捨ててしまうのではない。それで「手なれし具足なども、心もなくて変らず久しき、いとかなし」(以上29段)といった。『徒然草』には日本の中世的無常観がしみているといえようか。
8世紀に『古事記』と『日本書紀』が成立してからは日本は朝鮮半島に対しては好意を持とうとしなかった。その長い歴史において中国文化に対する言及はあっても朝鮮半島の文化に対する言及はほとんどないではないか。江戸時代に入って李退渓(イ・テゲ、1501―1570)に言及するようになるのは例外といっていいであろう。神功皇后に対する記録にしみこんでいた意識が継承されて行ったのかもしれない。そこには日本に行った百済の流民の恨(ハン)が込められているのかもしれない。日本の古典には中国の故事からの引用は豊富であるが、朝鮮の故事からの引用はほとんど見当たらないようである。朝鮮は昔から日本人の知的関心から取り除かれていたような気がしてならない。(2011年9月7日)
ヤスパースとアーレントの往復書簡集 (Hannah Arendt, Karl Jaspers Correspondence, 1926-1969, New York: A Harest Book, 1993)を長いこと読んでいる。1965年の書簡まで読んだが、ヤスパースがなくなる4年前、ヤスパースも夫人も病気であるという。ヤスパースも神経痛のため手をよく動かせないで手紙を書くことも難しいといっている。彼は82歳であった。その手紙に現れる「玉」のような文章を写そうと思えば切りがない。1949年にヤスパースが「政治的秩序と自由に対していうならばアメリカが唯一の希望だ”」(For political order and freedom, America is the only hope.)といっていることばを読んで今日においてもやはりそうではなかろうかと現実的にいわねばなるまいと考える。世界を見廻してどこに善なる世界を期待して委託すべきところがあるといえようか。
ヤスパースとアーレントの関係は世紀的な師弟関係であり師弟愛の象徴であるといわねばなるまい。二人はおたがいにあらゆる見解を共有して交換しあったばかりでなく、すべての著述、すべての原稿を交換して話しあい激励しあった。アーレントはヤスパースに彼は他のすべての人を合わせたよりも多くの影響を彼女に与えてくれたといったではないか。アーレントは常に自分は「異国から来た女」(the girl from a foreign land)といった。ヤスパースもそのような心情であったであろう。
アーレントはヤスパースの著作を英語の世界に紹介しようとつとめた。何度も愛しあっている間柄のような言葉をかわしあったが、今日読んだ1965年3月の手紙ではその終りでアーレントはつぎのようにいっているではないか。“Oh, how good it would be if we only lived a little closer together!(ほんの少しでも一緒にいられれば、それはなんと素晴らしいことか)” アーレントはエルサレムで裁判を受けているアイヒマンに対して本を書き、イスラエルの人びとからおおくの非難を受けている頃であった。アーレントは民族的なことよりも真実が優先しなければならないと考えた。世紀的な師弟愛であると私は改めて深い感銘を受けた。(2011年9月24日)
1965年4月のヤスパースの書簡にはアメリカではアーレントの学生たちがベトナム戦争に対する彼女の批判をよく受け入れてくれるといったことばに対するヤスパースの応答が出てくる。彼はドイツにおける経験によって学生たちがそのように純真であると考えがたかったようである。ヤスパースは第2次大戦前後の時代を経験したからかもしれない。実際ヤスパースは戦後スイスで著述活動をしながら、あなたはあまりにもユートピア的だと批判する投書を受けてきた。ユダヤ人を弁護するといっては “You Jew lover, you traitor, you slimy replile!”と「いまわしい卑劣漢」と呼ばれた手紙さえ受け取ったという。それでヤスパースはアーレントに対して再び “So again it is the Americans we have to set our hopes on them.(我々は彼らに希望を託さなければならない)”と言ったのであった。
ヤスパースには民衆を合理的であると思っていて失望した場合がいかに多かったか。これはドイツにおける経験であったが、われわれは韓国においてわれわれの国民または若い人びとに対してどのようなことがいえるだろうか。私はやはりアーレントのアメリカの若い人びとに対する見解に同意せざるをえないのではなかろうかと思うのである。日本統治での経験から、いやそれのみではなくもともと儒教社会において理想的社会を頭に描き、堕落した政治権力とのはざまで苦しみ悩んできた経験から、韓国人は批判的であり反権力的であったといえるかもしれない。そのために韓国人は執権勢力に対してあまりにも批判的であるといわれてきた。
これと一脈通じるといおうか。盧明植(ノ・ミヨンシク)が「民主化運動を政治闘争と思った人と暴力主義に対する闘争と思った人に別れるであろう」(全集第8巻166頁)といったことばを思い出す。軍事的政権に抵抗した人びとは政治権力を奪取しようとする人びとと暴力的権力に抵抗しようとした人びとに区別される。軍事政権後の状況は前者に属する人びとが横行しているといえるかもしれない。単にその暴力と戦った人びとは今日に至るまで疎外されているといえるだろう。私は民主化勢力であった人びとが政治権力に対して冷淡であったことを批判したこともあるが。盧明植のことば通りにこの両者は道を異にせざるをえなかったのであろう。
長い間、私は国内の友人たちのアーティクルを読んでいない。われわれは常に外国人の書いたものを読みながら国内の同僚の文章はあまり読まなかったのではなかろうか。これはある意味では読書をすれば古典という儒教の時代からの伝統であるといえるかもしれない。今度盧明植の文章を読みながら多くのことを考えさせられた。彼はそのような自身の文章が忘却の彼方に押しやられるのではないかと思って自費で12巻もの全集を出版したのであった。(2011年9月25日)
≫南における左派の伝統≪
老舎の『駱駝祥子』を読んでいる。彼は文化大革命のとき入水自殺した。数十年前、中学生の時に読んだ魯迅の『阿Q正伝』のことが思い出される。魯迅と老舎の間には文学的違いがあるに違いないと思うのだが、彼らの作品は近代の目でながめた中国を描いたものではなかろうか。韓国では李光洙の『無情』とか『土』または『有情』、日本では夏目漱石の『坊ちゃん』とか『草枕』または島崎藤村の『夜明け前』を出して比較して見ることができようか。中国文学にある諧謔が韓国文学にはほとんどなかった。日本文学にある諧謔も余裕も韓国文学の場合にはなかった。廉想渉(ヨム・サンソブ、1897~1963)の『三代』の立場はどうだったであろうか。どうしてかわれわれの場合は中国文学におけるような富裕な階層に対する余裕のある心などなかったような気がしてならない。近代を迎える時の精神史的差異というものはおのおの異なる歴史と伝統からくるものであったはずではないか。これを近代思想の面から考察すること、儒教的伝統を担っていた日中韓の伝統社会が近代に向かって没落していった様相と比較しながら検討することは興味ある作業であろうかと思う。(2011年10月3日)
夕方日本のテレビ番組を見ていて、IMFの副常任委員という朱氏のインタビューにひきつけられた。朱氏はギリシアにIMFの援助資金が入ってくるとヨーロッパの経済危機はいったん避けられるであろうというのであった。とても楽観的な態度であった。そしてギリシアの危機をそのままにして置いてヨーロッパに経済的危機が来るとすれば全世界的危機に当面するようになるのではないかというのであった。実に世界的ビジョンであった。そうなればアジアもその危機から逃れることができないと。危機であるにもかかわらず彼の信念にもとづく直観が実に印象的であった。われわれの周囲にはあのような人物はなく、体制下の小人物のみであるような気がしてならない。
呉在植(オ・ジェシク)がアメリカくるというので電話で話しあった。ソウル市長選に羅氏と朴氏が出馬するはずだというのであった。その間小学校児童のお昼の給食も全員無料にするかしないかで市長と市議会が対立していたが、貧しい家庭の子どもたちに対する部分的な無料を主張していた市長が市議会の多数派に破れて辞任した。それで今度の市長選はそれを揚げての与野党間の戦いであるという。世界的に経済的な危機が迫ってきているといわれ、日本の円は高くなり、韓国のウォンは安くなるという騒ぎではないか。このような危機において韓国の前途のためにわれわれはこのようにし、このように生きて行かねばならないのではないかと国民的なアピールをなしうる勢力も個人も思想も気力もない。政治的ポストをねらう人物といえば小学校における給食を全員無料にするのか、その一部のみを無料にするのかなどを争いながら、自分がソウル市長にならねばと力む。国民はそれに迷わされて、それ以上の民族的課題には目かくしをされているままである。
朴槿恵ヘという人は周囲をながめてはことばを慎み、どのような姿勢を取れば自分にとって有利であるかと気を使っているだけである。大統領になるために何が有利かと見渡している。そのような目くばりで大統領になれるというのであろうか。精神の不在、理念の不在、政治の不在のような気がしてならない。そのような姿勢で大統領をねらうとすればまた危機に落とし入れられるような気がして不安である。あのギリシアのようにである。そこでは収入もなしに国民を利益誘導、福祉誘導へと引っぱってきたのが左派政治勢力であった。そのような甘味を示して国民を欺き国民の犠牲を求めなかった政治であるとでもいおうか。それは大局を顧みない小児病的政治ではなかろうかと思われる。
私は李明博政権に対して寛大であり過ぎたといえるかもしれない。去年の8月、朝鮮日報とインタビューをする時も、私は彼はとても苦労しているといった。そういわざるをえなかったのは民主政治の下における大統領として彼は大統領としてもっとも弱く、国民の声はいつになく強くなったというべきではないかと思うからであった。私は歴代大統領に比べてその力がもっとも弱くなったこの時代において、彼ほどの業績を上げていればかなり評価してもいいだろうと思ってきた。彼は私財を奨学財団に寄付してその職務についた大統領ではないか。これがよき伝統として受けつがれればと私はおもっている。いままでの大統領は私財をかき集めて職を辞したと問題になってきたではないか。
この国民は伝統的に執権勢力に対しては非常に厳しかった。長い間圧力を受けて権力に服従しなければならなかったが、朱子学的伝統から儒教的に理想の政治を夢見てとても体制批判的であった。苦しい目にあいながらも体制を批判することは儒教者、そして近代以降、特に日本の植民地下では知識人の誇りとすることであった。このような韓国の文化的、倫理的な伝統を深く考える必要があろう。この国の国民は日中韓アジア三国の中で考えれば、ある意味ではもっとも権力批判的であったといえよう。しかし歴史の流れによってそのような心情も少しずつ弛緩してくるであろう。韓国人は受難の中にいる指導者に対しては非常に同情的であるが、いったん政権を握れば少しも寛大であろうとはしなかった。李明博政府がその任を終えるまで国民の50パーセント内外の支持をかちうるとすれば、戦後この国の政治史においてそれは初めての経験であるといえるのではなかろうか。(2011年10月4日)
終戦後、韓国の風土において左右に分断された歴史的経験と大統領という関係を考えざるをえない。北から南へと移ってきて大学で経験したことが思い出されてならない。南における左翼同情的な雰囲気に私は苦しまなければならなかった。特に若い人たちはそうであったが、キリスト教会は右翼的でありアメリカの軍政を支持する姿勢を取っていた。そのために私は1950年の朝鮮戦争頃まで南の若い人びとと交ることがほとんどできなかったのであるが、それだからといって教会的雰囲気に流れさることも好まなかった。このような状況が1950年の朝鮮戦争後は反共一色に流されたと思ってきたのだが、やはり若い頃の歴史的体験は誰の場合にもほとんど潜在意識的に続けているもののような気がする。
いままでの何人かの大統領の足跡を検討してみたい。金泳三と李明博はその頃、キリスト教に忠実であった家族の出身であり、金大中と盧武鉉はその頃そのような雰囲気に批判的な左派的雰囲気の中で育った。朴正煕はとりわけ日本の軍部に身を置いていたから終戦後は自分の身を守るためにも左派的雰囲気に流れたが、ついに右派に転向した機会主義的な人物であった。この当時のキリスト教会はほとんど右派の孤島のように見えたが、特に地方ではそうであった。このような雰囲気、このような精神的遺産とでもいえるものがいつになればなくなることか。李明博の後か、それとも北朝鮮のこともあるからもっと続くのだろうか。
李明博が1960年の4・19前後の歴史においては反政府的であったことも回想する必要があるであろう。実際私も1961年以降朴正煕批判に参加し、それ以降は在野勢力の民主化運動に加担したのであった。韓国のキリスト教教会もそうであったといえるのではなかろうか。私は北に対しては冷たい態度であったし、そのような意味では対北政策においても北に対して寛大な勢力とは対立してきたわけである。対米関係においても北に対して寛大な勢力とそうでない批判的な勢力においては差異があった。今度李明博はアメリカを訪問してFTA問題を中心としてあまりにもその親米的姿勢をあらわにしたといえよう。このように時間が過ぎて行っても若き日の刻印がわれわれの意識の中に残っていると考えざるをえない。若い時の左派的な考えを清算できないでいる人びとといおうか、そのような雰囲気の中で育った人びとのことを考えざるをえない。彼らのまわりには左右対立時代の傷あとが残っているのではなかろうか。歴史の痛み。そうだ。保導連盟関係者(注:左派からの転向を声明した人びとの団体)だというので朝鮮戦争6・25の時にトラックで運ばれて行った人びとの姿が目の前にちらつく。彼らは殺害されたのではないか。(2011年10月17日)
≫晩年について≪
1966年10月だからヤスパースの83歳の時であった。彼はアーレントに今まで彼が本を書くとか文章を書く時に制限を加えていたもの特に政治から解放されたのだといった。アーレントはヤスパースがこのように政治的関心から遠のくようになったことを彼のゲルハルト夫人が喜んでいるのに自分も共感しているといった。ヤスパースは徹底的に政治に対して嫌悪しているといった。
またその頃ヤスパースはアーレントと老後における自殺の問題について論じあった。その“The ‘free world’is not free because it prohibits suicide.(「自由世界」は自殺を禁じるので自由ではない)”とヤスパースはアーレントに書いた。彼は自殺のための薬物も準備していたという。彼らの死が実際自殺と関係があったかどうかは知らないが、ヤスパースは1969年に逝き、アーレントは1975年に69歳で逝った。生と死とに対する二人の考えに共感せざるをえない。アーレントはつぎのように書いたではないか。“What I would like to have is a sure and decent way of commiting suicide if need be. I’d like to have it in hand.(私が望んでいることは、必要ならば自殺をする確実で適当な方法だ。それを手にしたい)”そして晩年に至って彼らが抱くようになった政治に対する諦念に対しても深く共感せざるをえない。彼らはナチスの下での受難を経験した人びとであるからいつも死の問題について考えて来たであろう。しかし彼らはどうして政治を離れて考えることなどできたであろうか。政治に対してそれほど多く言及しまた関与したのにもかかわらず、最後には政治に対して背を向けざるをえなかった。これが哲学者の道であるというのであろうか。
今度のソウル市長選挙の政治をながめながら私はこのようなヤスパースとアーレントの晩年を頭に浮かべざるをえなかった。一人は民主勢力出身と称し、もう一人は与党側の女性政治家といいながら、ソウル市長当選を目ざして自分の正当性と犠牲精神を強調した。二人とも弁護士出身だという。この頃政治家・知識人といえばその多くが自由時間を持ちうる弁護士ではないか。彼らは常に信念ではなく、あらゆる論理を動員して事を自分の方に有利にしてしまう弁護士である。多分彼らは「私は罪人であります」と告白することなどできる人生など考えることもできないといえるかもしれない。
民主勢力といってもそれは今や政治的野心を包む装飾であって、理念もモラルもなくなって久しい。終戦直後、日本統治下における愛国と亡命という看板が政治においてものを言った時があったが、それがまたたく間に過ぎ去り醜悪な政治が横行するようになった日々のことを回想せざるをえない。それから政治は乱れに乱れ今日の政治は国民からほど遠い距離にあるような気がしてならない。投票をする人が有権者の数の半分を下廻り、その中で半数を上廻る投票をえれば当選するというのであれば、有権者全体の4分の1程度の票で大統領の座または国会に送られる。
李明博の時は有権者の3分の1の投票をえて圧倒的勝利だと騒ぎ立てた。それでは投票しない人、反対投票をした人というそれこそ圧倒的多数に対するいかなる配慮もなしに勝利に酔いしれたということではないか。この虚偽、この飾り立てに恥じることも、配慮することもなしに自分の勝利を騒ぎ立てるのである。今度のソウル市長選では小学生たち全員に対する無料給食というのが市長になった人の最初の決裁事項であったといわれるではないか。ソウル市民の5分の1だけの支持しかえていないのに、貧富の区別なしに一律的に無料給食を施すというではないか。投票場に現れなかった人はもっと問題にされねばならないのではなかろうか。大衆の支持を装う虚偽的政治ではないか。反対投票をした人びとはいわゆる反動分子だと考えるというのだろうか。投票場に現れなかった人びとに対してすまないという一言もなしそれこそ政治に付和雷同する者たちと共に意気揚々としているとでもいおうか。あまりにも非人間的な(inhumane)政治といわねばなるまい。
民主政治という名に巣くっているこの虚偽。政治にたずさわる者のこのような偽善をそのままにしてわれわれは自分の道を行くというのであろうか。いわゆる民主政治と国民の間に現れるこのような乖離、これを憂える政治は存在しないような気がしてならない。これに苦悩する政治はなく、それが我に利したと歓喜する勢力のみ存在するというのが、今日の民主政治というものであろうか。すでに良心的な政治勢力など存在しないと国民は背を向けているのではないか。私もつぎの選挙からは投票しない大衆に合流するかもしれない。政治においては「よりすくない悪(lesser evil)」を選択するということに対して私はとても懐疑的になってきた。少なくとも当選したいといっても投票しなかった多くの大衆、また反対投票をした多くの人々に対して済まないという気持を少しでも持ってくれればと思うのだが。民主主義とはあのようなものだと諦めるというのであろうか。選挙とはあのような人を選出して送り出すから騒ぎだというのであろうか。(2011年10月29日)
1967年10月に臨終の床にあったヤスパースにアーレントはイスラエルとエジプトの7日戦争について書きながら、イスラエル軍の総司令官ダイアナを讃えながらその一方で“Nasser shoud be hung instantly.(ナセルはすぐに敗れる)”と書いた。アーレントはアイヒマンの場合はイスラエル人から数多くの非難を受けたのであるが、今度はイスラエルを支持しイスラエル軍がいかに秩序整然と振るまったかを書き記して彼らをたたえた。やっぱり彼女はイスラエル出身であったといわねばならなかったのかもしれない。
私も1967年にニューヨークのユニオン神学校に行っていた時、そうではなかったか。ユニオンに来ていたイギリス人教授クラークがアラブ側を支持しながらイスラエルを非難するのに私は疑問を感じていた。しかし1968年の秋イスラエルに行っては、アラブ人に同情しイスラエルに対しては批判的になってしまった。何よりもイスラエルの人々がアラブ人を無視し傲慢であることに反発を感じたのであった。アラブ人たちが憾みのこもった目付で眺めるのにイスラエルの人たちが車の列をなして傲慢な姿勢で通り過ぎるのを見たり、観光バスガイドがアラブ人の悪口を絶やさないのを耳にして考え直さざるをえなかった。その時は世界の知識人がイスラエルを非難している時であったが、アーレントは違っていた。アーレントは家族がイスラエルにいたからかもしれない。
このようなアーレントの立場に対してヤスパースはどのように反応したかは恐らく知られていないのであろう。何よりもその頃彼は病床にあったのだから。1968年、イスラエルに訪れた時のことである。私はテル・アビブでイスラエルの青年とアラブのことについて論争をして翌朝できるだけ早く逃げるようにホテルを離れた。身辺に何か危険が及んでくることを恐れたからであった。アーレントはアメリカにおいてイスラエルに対する批判があまりに高まったからであろうか、68年2月のヤスパースへの手紙では“……so-called world history shows little regard for our desires.(いわゆる世界史は私たちの願望とはほとんど関係がないことを示している)”と書いている。現実政治にたいする絶望といおうか、大学のイスラエル批判の渦巻があまりにも強いのに彼女はとても失望していた。
いずれにせよヤスパースもアーレントもともに晩年には現実政治に対しては関心を失っていた。私は彼らのそういった考えに共感をおぼえる。それでこの頃は政治的なことがらに対しては沈黙しようと思う。金泳三、金大中、盧武鉉を見ながらだんだんとそうなったといおうか。KBS理事のあいだで民主化運動勢力側の人びとでも自分の利益となるとそれほど徹底しているのを見ながら政治とか現実に対して諦めるようになってきたといおうか。人間そして人間の歴史とはすべてそのようなものではなかろうかと考えるのだ。(2011年10月30日)
(続く)
池明観(チ・ミョンクワン)
1924年平安北道定州(現北朝鮮)生まれ。ソウル大学で宗教哲学を専攻。朴正煕政権下で言論面から独裁に抵抗した月刊誌『思想界』編集主幹をつとめた。1972年来日。74年から東京女子大客員教授、その後同大現代文化学部教授をつとめるかたわら、『韓国からの通信』を執筆。93年に韓国に帰国し、翰林大学日本学研究所所長をつとめる。98年から金大中政権の下で韓日文化交流の礎を築く。主要著作『TK生の時代と「いま」―東アジアの平和と共存への道』(一葉社)、『韓国と韓国人―哲学者の歴史文化ノート』(アドニス書房)、『池明観自伝―境界線を超える旅』(岩波書店)、『韓国現代史―1905年から現代まで』『韓国文化史』(いずれも明石書店)、『「韓国からの通信」の時代―「危機の15年」を日韓のジャーナリズムはいかに戦ったか』(影書房)
池明観さん日記連載にあたって 現代の理論編集委員会
この連載「韓国の現代史とは何か―終末に向けての政治ノート」は、池明観さんが2008年から2014年にかけて綴ったものです。TK生の筆名で池明観さんが1970年代~80年年代に書いた『韓国からの通信』は雑誌『世界』(岩波書店)に長期連載され、日本社会に大きな衝撃と影響を与えました。このノートは、折々の政治・社会情勢を片方に見ながら、他方でその時々、読みついだ文学作品、あるいは政治・歴史にかかわる書籍・論文を参照しながら、韓国の歴史や民主化、北朝鮮問題、東アジア共同体の可能性などを欧米の歴史・政治と比較しながら考察を加えています。
今回縁あって、本誌『現代の理論』は、著者・池明観さんからこの原稿の公表・出版についての依頼を受けました。第12号から連載記事として公開しております。同時に出版の可能性を追求しています。この原稿の出版について関心のある出版社は、編集委員会までご連絡ください。
連載
- 連載/池明観日記─第8回
韓国の現代史とは何か―終末に向けての政治ノート池 明観(チ・ミョンクヮン)