コラム/ある視角

〝巧言令色、鮮矣仁〟を安倍首相に贈る

〝令和〟にこめる妄執に囚われる危険な思想

ジャーナリスト 永澄 憲史

私、思想的にも信条的にもラディカルかつ、リベラルであると自任していますが、こと言葉遣いに関しては保守的で、従来通りの意味をまずもって尊重します。例えば「鳥肌が立つ」というフレーズ。昨今は「これまでの慣用を破る、という語感を伴い、プラス評価の場合にも」などと、新しい用例を示す辞書も目立つようになってきていますが、そうしたニュアンスでは決して口にしませんし、文に綴ることもありません。スポーツの実況中継で、選手やアナウンサーが興奮気味に「鳥肌が立った」と連呼するのを聞くと、拠って立つ言語観の違いから、本当に鳥肌が立ってしまいます。

そういえば、こんな記憶が残っています。六〇歳まで勤めた地方の新聞社で短い期間でしたが、運動部に所属したことがありました。四〇歳前後のころです。その時、すごく気になったのが「国民体育大会」を略した〝国体〟の文言でした。一九三〇年代半ばから四五年の敗戦まで、この〝国体〟の名の下で人々がいかに理不尽な状況に追い込まれたか、という事実を思い起こせば、このような省略の仕方には疑問を持たざるを得ませんでしたし、少なくともジャーナリズムに関わる人間は言葉にナーバスであるべきだ、という念が強くありました。

翻って、四月一日(エープリルフールでしたね)以降の〝令和〟狂騒曲です。安倍晋三首相は新しい元号の発表に際して、わざわざ官邸の会見場にしゃしゃり出てきて大仰な談話を述べただけでなく、ツイッターやインスタグラムにも談話を投稿する、といった悪乗りぶり。加えて彼に迎合したかのようなマスコミの尋常でないはしゃぎぶり。いずれに対しても強い違和感を抱きました。むろん、安倍首相、そして政府の「典拠は国書の万葉集」という説明もうさんくさく感じました。

そして言葉遣いに保守的な私は、首相談話にこれまた、等閑視できない語句を見つけました。「悠久の歴史と薫り高き文化、四季折々の美しい自然。こうした日本の国柄を、しっかりと次の時代へと引き継いでいく」の〝国柄〟です。この語、これまで政治家が使うことはあまりなかったのですが、彼の演説では頻繁に登場しています。それもこの談話同様、必ず日本の伝統、風土を讃える部分を受ける文脈で。例えば、「素晴らしい田園風景、緑あふれる山並み、豊かな海、伝統あるふるさと。わが国の国柄を守ってきたのは、全国各地の農林水産業です」(二〇一九年一月二八日の国会での施政方針演説から)といった具合に、です。

日常会話での「お国柄の違い」とか、いう言い方とは明らかにニュアンスを異にしています。これは私の勘ぐりですが、安倍首相はこの〝国柄〟に、前記の〝国体〟という言葉の意味、つまり天皇を頂点に仰ぐ国家体制のイメージ、を恣意的に重ねようとしているのではないでしょうか。そういえば、一九四〇年に文部省(当時)が編纂した「聖訓ノ述義ニ関スル協議会報告」にある「教育勅語全文通釈」では「此レ我カ国体ノ精華ニシテ」の部分を「これはわが国柄の精髄であって」としています。

こうした安倍首相のご都合主義というか、言い回しのすり替えは、断じて認めることができません。彼がことのほか気に入っている新元号「令和」の〝令〟に引っ掛けて、これは彼が大好きな〝国書〟ではありませんが、何度か元号の典拠になっている『論語』の一節を贈ります。「子曰、巧言令色、鮮矣仁(子の 曰  わく、 巧言令色、 鮮 なし仁)」(先生がいわれた、「ことば上手の顔よしでは、ほとんど無いものだよ、仁の徳は。」)=注1=。

注1 読み下し、現代語訳は金谷治訳注『論語』(一九九九年、岩波文庫)。

ながすみ・けんじ

1955年生まれ。2015年まで地方新聞で記者。現在、ジャーナリストとして活動。京都在住。著書に『唱歌の社会史 なつかしさとあやうさと』(共著、メディアイランド)。『陶然自楽 青木正児の世界』を近日刊行予定。

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