論壇

沖縄の地殻変動と日本の変化

仲井眞・日本政府を不信任、県民の政治意識の高さ示す

琉球文化研究所研究員 後田多 敦

先の沖縄県知事選挙(11月16日投開票)の結果と、候補者が出そろうまでの過程は沖縄社会の地殻変動を実感させるものだった。沖縄人の意識の変化が、具体的な政治行動にも姿を現し始めている。

民意の変化をどうみるか。課題も浮かび上がる

日本政府が辺野古埋め立てへの手続きを始めると、普天間基地の県外移設を主張して当選した仲井眞弘多県知事は、政府に擦り寄り2013年12月には埋め立て申請を承認した。そして、基地建設を容認する候補者となった。一方で、県内保守の中心人物で前回の知事選で仲井眞弘多氏の選対本部長だった翁長雄志氏(那覇市長)が、日本政府のオスプレイ強行配備を機に軸足を動かし、「アイデンティティ」「オール沖縄」をキャッチコピーに「建白書」へと進んでいく。そして、仲井眞氏の再選で辺野古基地建設が進むことを危惧する平和運動のグループやいわゆる「革新」から「勝てる候補者」として積極的な支持を得ていく。

埋め立て承認をした仲井眞氏への「不信任」「信任」が実質的な争点だった今回の県知事選挙は、かつて基地を容認してきた二人の保守政治家で争われるという不思議な構図になった。これに大城浩詩氏が沖縄独立を掲げて出馬を表明(最終的には断念)。さらに下地幹郎氏が独自のスタンスで動き出す。そして、民主党県連代表の喜納昌吉氏(立候補で代表辞任)が埋め立て承認撤回・取消を掲げた。

県知事選挙と同日には、県議会議員補欠選挙、那覇市長選挙、那覇市会議員補欠選挙があわせて行われることになった。一連の選挙の候補者が決まっていく過程は、沖縄政治の再編舞台でもあった。仲井眞氏と翁長氏が埋め立て承認の「不信任」「信任」という事実上の争点の顔となったことでもわかるように、従来の「保守」、特に翁長氏のグループが主導権をとってこの再編を進めていった。そのなかで、「イデオロギーよりもアイデンティティ」「オール沖縄」という言い方で、沖縄でくすぶっている自衛隊問題をどう考えるのかなど、重要な問題が封印されていった。

知事選挙は、翁長氏が仲井眞氏に約10万票の差をつけて当選した。これは翁長氏を最適な候補として積極的に投票したというよりも、埋め立て承認をした仲井眞氏への「不信任」であり、「当選させない」という選択だろう。日本政府に従属する仲井眞知事を信任するのか、しないのか。県民の答えは不信任だったのである。「仲井眞氏を当選させないために、支持してはいないけれども翁長氏に投票した」という声を幾つか耳にした。

この政治行動は、沖縄県民の政治意識の高さを感じさせる。先に行われた東京都知事選挙での都民の選択との対比で考えれば分かりやすい。沖縄の県民は、基地建設に「ノー」の意志を示しただけでなく、日本政府の言いなりにはならないということを明確に示した。

翁長氏は、この県民の意志を読み取って仲井眞不信任の風にのったということになる。「勝てる候補者」というキャッチコピーは巧みだった。沖縄のいわゆる「保守」は沖縄の民意の読みに成功し、再編を主体的に動かし始めた。一方、これまで平和運動をリードしてきたいわゆる「革新」は民意の変動を感受できなかった。そして、これまで米軍基地を容認してきた「保守」の新しい動きに押し流されたのである。民意の変化を理解できたなら、米軍基地と立ち向かい平和運動をリードしてきた人物を立てることができただろう。沖縄における米軍の後釜の位置を虎視眈々と狙う自衛隊にどう対応するのか。これもまた、大事な争点だったはずだが見えなくなった。翁長氏らの保守再編の戦略が成功したことになる。

県知事選と同日、県議会議員補欠選挙と那覇市議補欠選挙があった。特に那覇市議補選(2議席、5人立候補)は県民意識の地殻変動を表す結果となった。那覇市議補選には、沖縄の独立を掲げる「かりゆしクラブ」の屋良朝助代表が立候補し、当選はできなかったものの10,093票を得票している。トップ当選した宮城えみこ氏は52,740票、2位当選の金城トシオ氏が28,995票(得票数は那覇市選挙管理委員会最終)。圧倒的な得票で当選した宮城えみこ氏は独立を公約に掲げてはいないが、昨年発足した琉球民族独立総合研究学会のメンバーである。宮城えみこ氏と屋良朝助氏の得票数の背後にあるものは、仲井眞氏への不信任だけでなく、新しい沖縄の政治枠組みへの違和も含まれていると見ていいのかもしれない。

沖縄とヤマトの落差を示す東京・九段の昭和館

沖縄社会の地殻変動は、日本社会の変化とも対応している。日本社会は大きく動き出しているが、それがまた沖縄の変化を加速させているといっていいだろう。

今年の夏、東京九段にある昭和館を久しぶりに訪ねた。開館間もないころに一度訪ね、その後は数年前に足を運んだことがあったので、今回で3回目である。初めて館を訪れた際に、強い違和感を覚えたこともあり、2回目はその原因を確認・整理するために参観した。今年の訪問は、かつての違和感を現在の位置からもう一度確認しておこうと思い立ったためだ。昭和館のコンセプトや展示が、日本社会でどのように受け止められているかはさて置き、そのありようが沖縄とヤマトとの違いを端的に表していることを改めて感じてきた。

昭和館は1999(平成11)年に開館した国立の博物館(厚生労働省社会・援護局所管)である。昭和館のホームページでは「昭和館は、主に戦没者遺族をはじめとする国民が経験した戦中・戦後(昭和10年頃から昭和30年頃までをいいます)の国民生活上の労苦についての歴史的資料・情報を収集、保存、展示し、後世代の人々にその労苦を知る機会を提供する施設です」と説明している。施設の扱う時期は「昭和10年頃から昭和30年頃までの国民生活上の労苦」だという。

昭和館の設定したその時空間自体が、その展示への違和感をもたらすベースになっていた。その時期を振り返れば、日本は周辺諸国を侵略し他国・他地域で戦闘を繰り広げていた。そのころの日本の戦争は、アジア・太平洋戦争と呼ばれるような広がりを持っている。武力で多くの植民地を獲得した日本は、さらに戦闘の範囲を広げていく。日本軍の戦闘の大部分は他国で行われていたのである。

しかし、昭和館はその「外」での戦争に目を向けるのではなく、「内」の暮らしを中心としている。昭和館が教材用に配布する『伝えたい 昭和のくらし 戦中と戦後』(昭和館、2013年版)の最初の項目は「出征」だった。冊子は「『出征』とは、兵士として戦地へ行くことです」と説明している。兵士は戦地へ出征し、家族は郷里で銃後を守る。そして戦地は日本の「外」であり、日本の「内」ではない。出征した兵士が戦地で何をしたのか、戦地で何があったのか。「外」に視界を開かない。

日本社会を覆う「昭和館」化、自決へと進む沖縄

沖縄では1945(昭和20)年4月、米軍が沖縄島に上陸し、およそ3か月にわたって日本軍と激しい戦闘を繰り広げた。沖縄島は「戦地」「戦場」となった。島は無人島ではなく、そこで暮らす一般の人々(国民)がいた。その住民も日米両軍の激しい戦闘に巻き込まれていく。「沖縄戦」と呼ばれる日米両軍の戦闘である。

この文章を書いているちょうどこの時期、沖縄で「比嘉豊光展―骨は月を見る」が開催されている(「画廊沖縄」、2014年11月15日~30日) 。そこで展示されている写真家・比嘉豊光の写真とビデオ(360分)が伝えるのは、出征した日本兵の一つの結末だ。浦添市が行っていた発掘調査の現場から2009年夏、日本兵の遺骨が出てきた。それを知った比嘉はその発掘現場に通い、遺骨が発掘される過程を写真やビデオにおさめた。展示会ではその発掘過程を6時間にまとめたビデオが遺骨の写真とともに展示されている。

2010年には那覇市の再開発の現場(日米両軍の激しい戦闘が行われた場所)から、脳みそが残っていた日本兵の頭蓋骨が掘り出された。今回は展示されていないが、比嘉はその脳みそが出てきた際の様子も写真とビデオにおさめている。

米軍との戦闘での死から65年後に遺骨として掘り出された日本兵。沖縄では現在でも、沖縄戦で死んだ日本兵の遺骨が市街地からたびたび出てくる。遺骨を発掘しているボランティア団体もある。遺骨のほとんどは日本兵だ。米国は自国の兵士が死亡した場合は、その死体を持ち帰っている。沖縄戦の際も米軍は遺体を持ち帰ったようで、骨となるまで放置された米軍兵士は基本的にいない。戦闘に巻き込まれ犠牲となった沖縄人犠牲者も、関係者らが遺骨を早い段階で収集したりしている。

現在は日本の一県である沖縄から見ても、日本社会の昭和10(1935)年から昭和30(55)年ごろまで出来事を現在の日本国内で説明するだけでは、多くの欠落を生み出す。日本が植民地とした台湾で日本人はどう生きたか。戦後でも米軍占領下の沖縄人はどのように暮らしていたのか。それは昭和館の時間にははいらない。

そしてそのような昭和館のあり様が、日本全体を覆い包み始めているように思う。いいかえれば日本社会の「昭和館化」である。近代日本は台湾出兵(1874年)から、何度も海外派兵を繰り返し、他国や他地域を踏みにじり、そこで殺戮を繰り広げてきた。植民地や実行支配地域など統治の領域も変化した。侵略され踏みにじられ、肉親を殺戮された地域では、その記憶が鮮明に残っている。しかし、昭和館は「拡大」と「縮小」の客観的事実さえ別空間へ押しやられ、自らの「苦労」を浮き上がらせる。そこには、死後65年も置き捨てられ、遺骨として沖縄人に掘り起こされた日本人兵士の姿もない。時には日本人さえも、その視野の外へ追いやっていく。

この「昭和館的思考」が、最近の日本では公的な場でも公然と見られるようになった。第2次安倍内閣は2013年4月28日、日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)が発効した4月28日を「主権回復の日」として政府主催で記念式典を開いた。これは「昭和館化」の典型の一つである。サンフランシスコ講和条約で米国占領継続を正当化された沖縄では、この政府主催の式典に激しい抗議の声があがっていた。「日本」の主権回復は、沖縄を米国に提供することで成立した。その「日本」に沖縄は入っていない。そこには、日本の都合で「外」と「内」を行き来させられる沖縄がある。

日本社会が「昭和館化」するなかで、日本の表舞台でも露骨に都合よく「外」と「内」が使い分けられる。そして、日本の犠牲とされ続けている沖縄が固定化される。かつては少なくても公然化しないような一定の配慮がなされていた。「昭和館化」が公然となり、しかも制度化されるなかで、沖縄では激しい憤りが渦巻くことになる。「オール沖縄」「建白書」「構造的差別」「自己決定権」「独立」など、これらの用語はそれぞれの政治的スタンスや思想、背景は異なるものの、渦巻く憤りが出口を探すなかで見いだされたものといっていいだろう。自らの位置を意思で再確認していこうという沖縄の動きである。これが沖縄の地殻変動の核だといっていい。

社会や国の方向の選択として「昭和館化」へと舵を切る日本。しかし、日本が選択して進もうとしているその道は、アジアの近隣諸国から理解や共感を得られることはないだろう。このことは日本の近現代の歩みと、さらには隣国との関係を悪化させている近年の動きからも明らかである。日本の「植民地としての沖縄」から脱却しようとして大きく舵をきっている沖縄。そして、この沖縄が進もうとしている道は、すでに70年ほど前に日本に支配されていたアジアの国々が進んだ道である。それはまた、強権的に支配と昭和館化する日本社会への異議申し立てでもある。

日本にとってそのような沖縄からの距離は、東アジアでの日本の孤立度のバロメーターだといってもいい。日本は沖縄の位置を、「外」「内」と都合よく使い分け、犠牲だけを沖縄に強いてきた。沖縄はいま、日本との関係を冷静に問い直し始めている。日本の視界から沖縄が消えたとき、日本の孤立は深刻な状態であり、寄り添う友を見いだすことができない地点にまで到っていることに気付かなければならないだろう。日本社会は沖縄との関係を真摯に考えるときにきている。それができるなら、それは沖縄との関係の問題にとどまらず、日本社会がアジアのなかで信頼を得て、より豊に生きていく契機となるはずである。

しいただ・あつし

1962年石垣島生まれ。神奈川大学大学院歴史民俗資料学研究科前期課程修了。沖縄タイムス記者を経て現在、琉球文化研究所研究員。著書に『琉球救国運動―抗日の思想と行動―』(出版舎Mugen、2010年)、『琉球の国家祭祀制度―その変容・解体過程―』(出版舎Mugen、2009年)。

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