特集●次の時代 次の思考 Ⅲ
〔連載〕③君は日本を知っているか
地域を見直す
神奈川大学名誉教授・本誌前編集委員長 橘川 俊忠
トイレを作って訴えられた男の話
いきなり何だと思われるかもしれないが、古文書を一つ読んでいただこう。
口上
一 今度(このたび)、三郎兵衛、毎度我儘(わがまま)多く、村中より御公儀様へなげき書付上げべく候処(ところ)に、先(まず)手前せんぎ仕とらせ申すべきの由御申し成られ候に付、大荒の時分村中小百姓等迄召し寄せ、親父様御せんぎの上、傳右衛門一両日之内せんち寄せべき旨請け合い、最早次第に余り申し候へ共、取るべき躰これ無く候。往来をふさぎ申すいたずら者と村中一所に成り、後々迷惑に及び申す事罷り成らず候。右の通り村中連判書付指し上げ申すべく候間、御取次遊ばされ下さるべく候。拙者共印判共茂右衛門に遣わされ申されべく候。今度埒明(らちあき)申す事、貴様御申し付けにより、世間外聞も笑止に存じ奉り候。能々(よくよく)御分別(ふんべつ)遊ばさるべく候。以上
時国長左衛門様村中
句読点を施したり、仮名を直したり、振り仮名を付けたり、読みやすくはしたが、分かりにくいところもあるので、内容を要約しよう。「日頃から我儘が多くて困らせられていた三郎兵衛が往来をふさぐ形で「せんち」(雪隠)つまりトイレを造作した。代官所に訴えようとしたら、村で処置せよということだったので、庄屋様に頼んで詮議してもらい、傳右衛門が一両日中に撤去することになった。しかし、期限が過ぎてもまだ撤去していない。それで村中一同連判して代官所に書付を差し出したいので、取り次いでもらいたい。庄屋が仲立ちしてきめたのに、実行されないのでは世間体も悪いでしょうから、よく検討していただきたい。」という内容である。
この古文書は、能登半島の輪島市にある時国家に残されていたもので、時国家が代々庄屋をつとめる南時国村の中の曽々木という集落内の紛争についてのものである。作成された時代は、他の関連古文書から、享保四(一七一九)年であることが分かっている。そのころ曽々木は、製塩・漁業・廻船などでそれなりに栄えていた四五十戸ほどの集落で、天領と加賀藩領が入り合いになっていた。時国家は中世以来のこの地方の豪家で、天領分の庄屋を務めていた。長左衛門というのは、当時の当主であった。
問題を起こした三郎兵衛というのは、この曽々木の住人で、身分は頭振(あたまふり)――加賀能登地方特有の身分呼称で、近世に一般的であった水呑百姓のこと――に属していた。だからといって三郎兵衛は貧しかったわけではない。船を持ち、規模は不明だが、それで廻船業を営み、定置網の権利も持っていた。それで、息子の傳右衛門ともども活発に活動し、時には村にいろいろともめごとを引き起こしていた。いうことを聞かないからと雇っていた水夫を荒海にほうりこんだり、博打場を開いたり、暴力事件もしばしば起こしていた。この三郎兵衛家は、後には、金融によって田地を手に入れ、本百姓に上昇し、幕末期には組頭をつとめるようになった。幕末・明治初期には長尾岩窓と号し、漢詩文や書を良くし、近隣からしたわれるほどの医者・文人を生みだしてさえいる。
水呑百姓というと、田地を持たず、高額の小作料に苦しむ、食うや食わずの貧しい農民というイメージで語られることが多いが、それはかならずしも正しくない。検地帳に付けられ、年貢や様々な公的役務を負わされている本百姓に対して、水呑は、そういう義務のない「自由」な立場であったから、様々な経済活動を行い、相当な財力を持つ者も少なくなかったのである。とにかく、近世の身分制は、たとえばインドのカースト制のような厳格なものではなく、多分に建前的な性格を持ち、その時代を生きた人々の実態は、普通に語られてきたよりもはるかに活動的で、流動的なものであったと考えなければならないことは確実である。
それはともかく、ここにわざわざ古文書を持ちだしてきたのは、事件そのものに検討すべき問題が含まれているからである。事件は、村中のよくある小さな内紛にすぎないといえばそうであるが、そこには小さな事件であるが故に物事の本質が現れている面がある。まず、先に述べたように活動的であった三郎兵衛は、すきあらば自分の屋敷地を拡大しようとして、往来に雪隠をはみ出させたことに注意しよう。つぎに、その三郎兵衛の動きに対して、他の住人は団結して対抗しようとしたこと、そして、その主張は往来という公共空間を守るという論理に立っていることにも注目したい。さらに、その村中の争いは、公儀=公権力への訴えとして、訴訟として提起されようとした。しかし、公儀は、その裁決を村にゆだね、庄屋が仲介に入り、一応の解決をみるに至ったことにも注意しなければならない。それから、もう一つ、庄屋の裁決にもかかわらず事態は解決しなかったため、住人たちは、もう一度出る所へ出る、そのことについて「能々御分別遊ばさるべく候」と脅しに近い圧力をかけている点にも興味をひかれる。
三郎兵衛は、以前から時国家と特別の関係があった(実際、しばらく後には時国家の廻船業の差配をしている)らしく、多少甘く見ていたかもしれない。しかし、村中の要求は強硬で、結局三郎兵衛は、この一件以外の問題も含めて村に詫び証文を入れ、一件はようやく落着した。
村の自治の内実
日本の村、特に近世の村は、共同体とみなされることが多く、共同労働のための「結」、相互扶助的金融の仕組みとしての「頼母子講」などに象徴される「絆」社会とイメージされ、その反面「五人組」や「村八分」に象徴される相互監視の閉鎖社会という負の側面も持つとイメージされることが少なくない。それがまったくまちがっているというわけではないが、現実の村は、それだけで語るにはあまりにも多様な活動を含んでいた。前述したように、様々な事業に取り組み、ときには自分の領分を拡げるために紛争の種になることもいとわない積極性を持った「村人」も、けっして少なくはなかった。そういう積極性が、紛争をもたらすと同時に村に活気を与えていたことを否定すべきではないであろう。むしろ、村の中に必要な要素として存続を許されていたと見るべきかもしれない。実際、三郎兵衛は、詫び証文を書かせられはしたが、村から追放されたり、村八分にあったりはしていないのである。
しかし、そういう人物が内部にいる村は、そのために起こる紛争を解決する方法を持つ必要がある。近世は基本的に戦国状況の克服のために私闘が禁じられている社会(私的な暴力行使が認められた仇討ちにも免許が必要とされた)であったから、争い事は訴訟によって解決する方向をめざすことにならざるをえなかった。その方向は、村の中の小さな紛争の解決にまで及んでいた。訴訟による解決が有効に作動するためには、その社会において一定の規範ないし規範意識が共有されていること、訴訟のための制度が整備されていること、そしてその制度を活用できる主体が形成されていることなどの条件が必要となる。もちろん、近世において、そのような条件は現代のように整備されていたわけではないが、すくなくとも訴訟を中心とした紛争解決を可能とするまでには、社会は成熟していた。
ここで紹介しているケースの場合、村の住民は寄り合いを持ち、相談の結果、公儀に訴え、内済にせよと指示されると、庄屋に仲介させ、三郎兵衛の譲歩を引き出し、それがなかなか実行されないと見るや、公儀への訴えをちらつかせて庄屋と三郎兵衛に最終的に譲歩させた。こうした住民の動きは、内済になることを承知の上で公儀への訴えをいわば脅しとして利用しながら自分達の要求を実現させるというしたたかさを示している。
近世の「村の自治」というのは、こうした住民たちの「したたかさ」に支えられていたのである。その実情を支配者の側からみたのが荻生徂徠である。徂徠は、『政談』で村の実情について、「さて田舎のしまりなくなりたり。田舎のしまりというは、昔は在々に武家みちみちたれば、百姓ども我儘ならず。百年も以来、地頭知行所に住まざる故、頭をおさるるものなくて、百姓殊の外に我儘になりたり。御旗本の武士小身なれば、自身住まずしては、江戸より知行処の仕置きをする事ならず、代官など遣すも、小身者の家来、若党風情のものなれば、何の用にもたたず。」とか、「小身ものに御代官を仰せ付けられ、その身は在江戸にて手代を遣す故、種々の奸曲あり。また田舎に遣されても、小身なる故、公事の裁許もならず、小身にて武備もこれなき故、盗賊をしずむる事もならず。また御領、私領・寺社領へたたになりて(入り混じって)、川普請等も不便利也。」というように書いている。これは、関東近辺の様子を述べていると思われるが、武士が城下に集住させられ、地方(じかた)に居住しなくなっている全国の大名領でも同じような状況であった。
盗賊の取り締まりもできず、川普請のような公共性の高い事業もままならないのが武士の支配――これでよく武士が支配する封建制が維持できたのかと思わせるほどであるが――の実態であったとすれば、村にそれらの機能を担う力がなければ「三百年の泰平」など維持できるはずはなかった。しかし、近世の村には、そういう力が蓄積されていたのである。組織性、紛争解決能力だけではなく、地域の公共を守り、維持する力があった。往来にはみ出した雪隠をひっこめさせたのは、まさにそういう力であった。自分の私的領域を拡大しようとした動きに対して、あいつがやるなら俺もという私的利害の拡大競争ではなく、往来という公共領域の確保を優先させるという発想は、もう少し評価されてしかるべきであろう。
渡辺京二が『逝きし世の面影』の中で紹介しているように、幕末・明治期の来日外国人達は日本の街道・往来の清潔さを異口同音に称賛しているが、その清潔さはその土地に居住する人々の努力によって維持されてきたのである。日本では、「公」は「お上」と同視され、常に上から、支配者の側から来るものとされることが多かった。幕府や藩を「公儀」と称するのは、そのことの現れとすることもまちがいではないであろう。しかし、「公」とか「公共」という言葉で表現されてこなかったとしても、地域住民の生活・活動の場において実質的に「公共」に近い観念が形成されていた。 今でも諸外国では、自分の家はきれいにしていても一歩外にでればゴミが捨てられているとか、相当に近代的ビルができている町でも、工事の塀の内側や歩道橋の看板の陰に糞尿があふれているような光景を目にすることが少なくない。そういう公共の場に関する感覚には、相当の落差がある。日本でも高速道路の路肩や道路の植え込みなどにゴミが散乱している光景がないわけではないが、その程度ははるかにましだ、というのが多少外国の町を歩いてきての正直な実感である。その落差の生じてきた所以は、近世以来日本の村に培われてきた習慣や意識、もっと広い意味での地域の力にあると考えるべきであろう。
見直すべき地域の力
たった一片の古文書で大げさな、と思われるかもしれない。この小論は歴史学の論文ではないので、議論を立証する資料は他にも厖大にあるが、繁雑な資料の紹介を避けただけである。問題は、歴史を観る観点にあるのであって、その意味では一点であっても十分検討するに値する論点は摘出できたと確信する。
それはともかく、このような議論がなぜ必要であるかといえば、それが現在の地域の復活に大きな関連があるからである。東日本大震災の時、被災地の住民の災害への対応は世界の称賛を浴びた。略奪や救助物資の奪い合いはまったく見られなかったし、被災者同士が助け合い、支え合う姿は人々の感動を誘った。避難所においても物資の配布、トイレの清掃など、避難所生活を規律しようという動きは、被災者の中から自発的に生れてきた。そういう「力」は、どこから来ているのか。それは、けして血縁原理に基づく「絆」などではない。その地域に、歴史的に蓄積されてきた共同生活の場としての地域を一つの社会として形成してきた習慣や組織化の意識的・無意識的「力」にこそ源泉があった。
歴史を振り返ってみると、明治以来、欧米の近代的中央集権国家の形成を第一の目標としてきた日本は、中央政府への権限の集中と人材の中央への吸収に力を注いできた。中央への集中が、地方の衰退を招いても、地方の実情を無視した中央的視点からの政策の押し付けに終始してきたといっても過言ではない。震災後、それまで過疎と老齢化に苦しんでいた被災地にあのような「力」があったことを想像できた中央官僚がどれほどいたであろうか。はなはだ疑問であるといわざるをえない。実際、復興過程においても、中央からの復興計画や思い付き的政策の押し付けばかりが目立ち、被災地住民の「地域力」を生かそうという動きはほとんどみられない。
たしかに、明治以来の近代化の過程、高度成長期の利益誘導型政治の展開は、「進んだ中央、遅れた地方」という誤った意識を蔓延させ、地方の中央依存の傾向を助長してきたといってよいであろう。そして、地方の住民自身もそういう先入観に縛られていたという面があることは否定できない。しかし、本当の危機にあたって、住民の命を守ったものは、地方に脈々と受け継がれてきた「地域の力」そのものであった。その事実の持つ意味は、けっして小さくはない。
災害は、多大な犠牲を生みだすが、それは時にそれまでに隠されていた人間の力を発現させることがある。その力を生かしてこそ、復興への道筋が見えてくるはずである。また、災害に直接遭わなかった者にとっても、自分達の歴史や社会を考え直す重要な機会ともなる。正直にいえば、東日本大震災とそれ以後の事態が、筆者の古文書を読む視点を変えるきっかけとなったことを言い添えておきたい。
きつかわ・としただ
1945年北京生まれ。東京大学法学部卒業。現代の理論編集部を経て神奈川大学教授、日本常民文化研究所長などを歴任、昨年4月より名誉教授。前現代の理論編集委員長。著作に、『近代批判の思想』(論争社)、『芦東山日記』(平凡社)、『歴史解読の視座』(御茶ノ水書房、共著)、『柳田国男における国家の問題』(神奈川法学)、『終わりなき戦後を問う』(明石書店)など。
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