論壇

“リベラル”の現代的可能性

『リベラルとは何か』(田中拓道著)を読む

市民セクター政策機構理事 宮崎 徹

久しぶりに理論的にして実践的、しかも簡にして要を得た良い本に出会うことができた。田中拓道著『リベラルとは何か』である。テーマは時代のニーズにぴたりと合致しており、論の次第や中身は明晰である。読み進むうちに頭が整理されるような感じがしてくるので、一気に読める。以下、主な論点を紹介しつつ、若干の感想を述べたい。

自由主義とリベラル

周知のようにリベラルという言葉は便利なようでいて曖昧で混乱を誘ってもいる。アメリカとヨーロッパではリベラルという言葉の用法が反対であるとか、リベラリズムとリベラルの意味のずれなどがすぐに思い浮かぶ。しかし、著者の定義は明快である。リベラルとは「価値の多元性を前提として、すべての個人が自分の生き方を自由に選択でき、人生の目標を自由に追求できる機会を保障するために、国家が一定の再配分を行うべきだと考える政治的思想と立場」のことであり、20世紀初めに登場し、その半ばに先進国共通の「教義」として定着した。

著者に従って、そこに至る歴史的経緯をごく大雑把にたどろう。自由主義の起源を古代ギリシアにさかのぼる研究者もいるというが、常識的には近代に出発点があるとみなされよう(これを古典的自由主義ともいう)。この時、封建的な身分制社会から脱却し、すべての個人は神から与えられた不可侵の「自然権」を持ち、「生まれながらにして自由かつ平等な独立した存在」とみなされたからである。国家の役割は自然権を守ることに限定される。蛇足的に引用しておくと、いわゆる「法の支配」とは法によって人びとが縛られることではなく、「人びとの制定した根源的な法によって国家権力が縛られるという意味である」。

古典的自由主義は、このように身分制秩序や政府の圧政から個人を解放する改革思想として生まれてきた。しかし著者も指摘するように、商工業が本格的に発達するにしたがって、その担い手たるブルジョアジーの利益を代弁する経済思想へと変質していく。その集大成がアダム・スミスの『国富論』である。市場には「見えざる手」が働き需給が調整されるのだから、国家の介入はやめるべきだという自由放任主義に至る。あるいは国家の役割は自由な市場を維持することに限定する。つまり、市場は自己調整メカニズムを持つ秩序だとみなされ、そうした予定調和的な経済思想が政治ないし統治全般に投映されることになる。

しかし、産業化が進むに及んで、農村から都市へ移り住む人が急増し、労働者階級が生まれてきた。長時間労働や児童の酷使、繰り返される不況のなかでの失業や劣悪な生活環境で貧困と貧民が社会問題化していく。その中で社会主義的な思想も芽生えてくるが、著者が重視するのは、自由主義的立場からその主張を修正する思想と運動が現れてきたことである。これを「倫理的リベラリズム」と呼ぶ人もいる。こうした動きの中で労働者保護法制や社会保険などの初期的社会政策が生まれてきた。つまり、自由を実現するためには、国家がすべての個人に能力の発展の機会を保障しなければならないという考え方である。

リベラル・コンセンサスの成立と解体

20世紀になってからの動きを端折って整理しておくと、ポランニーのいう「大転換期」を経て第2次大戦後へと続く。すなわち、この時に経済面ではアメリカの大恐慌に至る深くて長い経済スランプに陥り、市場の自己調整能力への疑いが広がった。大規模で長期化する失業に直面して、「いずれ市場の需給調整で解決する」というのでは政治的に持たない。また現状分析する経済理論の世界でも、不均衡を主題とするケインズ経済学が優勢となっていく。市場はいつも均衡をもたらすものではなく、いったん不均衡になると、むしろブレを拡大する。だから、政府の経済政策によるコントロールが必要だという、自由放任にとって替わる経済思想の革命であった。これにベバリッジの社会保障論が加わって、戦後の福祉国家への道が開かれた。ただし、いわずもながだが、市場経済は前提であり、雇用とリスク保障を提供しつつ、そのうえで各自が「自由に生活を築く」という自由主義は守られている。

新しい産業技術の勃興期であったことに加えて、政府による財政・金融政策に促進されて高度成長が実現する。成長で税収が潤沢になり、福祉政策を展開する元手が豊富になる。福祉を含む再分配政策で豊かな中間層の登場で消費が活発化し、それが成長をもたらす。つまり、福祉と経済成長の好循環が生まれた。著者は、こうした事態を経営者と労働者の階級対立を解消する「生産性の政治」とし、生産性向上で分配の原資であるパイを大きくすることが可能となり、両者がそれで合意したからだと整理している。こうした国内体制は、自由・無差別・多角という戦後の国際貿易体制にも担保されていた。こういう内外の合意が「リベラル・コンセンサス」といわれる。

リベラル・コンセンサスに基づく福祉国家体制はほぼ30年の長きにわたって持続した。しかし、70年代の2度の石油ショックで経済成長が屈折すると同時にほころびが表面化してきた。各国とも財政が悪化し、福祉政策も行き詰まるようになった。国際的にはグローバル化の進展、すなわち企業活動が国境を超えるようになり、一国単位の「ケインズ主義的福祉国家」の維持が難しくなった。国内的にも産業構造の変化が進み、サービス経済化が顕著になっていく。

ここで著者が重視するのは、後論でもう一度触れるが、サービス経済化の中で事務職、技術職、専門職などの中産階級が多数になるにつれて、人々の価値観が多様化していくことである。「経済成長を最優先し、成長の成果を分配するという労働者・経営者の合意の土台が崩れていったのである」。この価値観の変化が、のちの政治主体交替の予兆である。

新自由主義をどう捉えるか

こうして70年代以降、戦後のリベラル・コンセンサスは解体し始め、2つの方向からオルタナティブが出てくる。「1つは、経済的な自由を前面に掲げる新自由主義である。もう1つは、社会的・文化的な自由を掲げる社会運動である」。

通説的な整理では、リベラル・コンセンサス解体後に古典的な自由主義(自由放任主義)が、ハイエクやフリードマンらによって掲げられ、復権したということになっている。しかし、これは大雑把に過ぎる見方であり、著者によれば「新自由主義は古典的な自由主義とは異なる論拠に支えられていた」のである。それは経済的自由だけではなく、「価値の多元性」という「新たな哲学」に支えられたものだったはずである。

また他方で、非物質的な価値を重視し、ライフスタイルの自己決定を唱える「新しい社会運動」が台頭した。そして、新しい社会運動を契機として先進国の政治の場には、分配をめぐる国家-市場という対立軸(右派と左派)に、文化的な「リベラル-保守」というもう一つの対立軸が加わったと整理をしている。つまり、新自由主義と新しい社会運動の双方によって唱えられた「価値の多元性」が、これ以降の政治動向を見ていく際のキーワードになるというのである。

こうした視角はたしかに、今日に至る政治や文化の動向を精緻に見極め、どこに可能性があるかを見つけていくためには大切であろう。2つのオルタナティブを両睨みするのは怠られがちである。それはともかく、まずは新自由主義のほうからみていく。新自由主義の魁はミルトン・フリードマンが1951年に発表した「新自由主義とその展望」という論文であるとされる。彼は人びとの福利向上をめざして国家の役割を拡大しようという当時の思想を「集産主義」と呼んで批判する一方で、19世紀的な自由放任主義とも一線を画した。自由な市場競争を維持するためには、独占を禁止し、通貨を安定させ、最低限の生活保障をするなど国家が一定の役割を果たすべきだとした。

ハイエクもまた、各人の価値観は多様であり、もし国家が共通の目的を定め、「自由」の名のもとにそれを強制するなら、個人は抑圧され、排除されてしまうと考える。このように新自由主義によるリベラルへの批判の核心は「価値の多元性」であった。個々人の価値観には根源的な多元性があり、合意を作ることは不可能であるというものだ。それゆえ当然ながら、フリードマンは政府の画一的な判断を個人に押し付けるものだと福祉国家を批判し、各人が自分の価値観に従って利益を追求するとき、能力が十全に発揮され、社会全体が豊かになるとする。ハイエクも個人の選択の自由を脅かすものとして福祉国家を批判した。

こうした福祉国家批判に飛びついたのが政権奪取をめざしていたサッチャーやレーガンである。経済が停滞基調に陥ったのは福祉や社会政策のせいだとされた。福祉という重荷を外して、経済の本来のバイタリティを取り戻さねばならない。政策的には周知のように、公社・公団の民営化、規制緩和という市場化の推進、福祉切りつめと自助のススメである。これによって一時的には成長率の上昇がみられたが、大きな帰結は経済格差の拡大と社会から排除される人々の増大であった。サッチャー保守党政権は10年ほど続いたが、社会的危機の深まりの中で労働党に取って代わられることになった。

著者が強調するように、新自由主義は、もともとは価値の多元性と個人の選択の自由を重視する思想であったはずだ。しかし、「それが政治において実践に移されると、経済的な価値を一元的に強調し、個人を経済発展へと動員する思想に変質していった」のである。わかりやすく表現すれば、本来の新自由主義と「政治的」亜種としての新自由主義は区別されるべきだということだろう。ややもすれば、そうしたていねいな分析は看過されがちである。

もう一度振り返っておけば、まず古典的自由主義が産業革命を経て経済的自由主義に一面化され、それが統治の思想として政治にも反転した。その後、困難を乗り越えるべくリベラルな思想と政策が20世紀の初めに生まれてきた。しかし、20世紀後半には限界(一部は成功のゆえの)に逢着した。そして、代わるものとしての新自由主義は実践的、現実的にはかつての経済的自由主義をさらに極端なものとした。

新しい社会運動の台頭と挫折

さて、リベラル・コンセンサスへのもう一つの反発は「新しい社会運動」であった。著者によると、その背景は新しい価値観の登場である。それまでの経済的価値観を一元的に強調する傾向に対抗し、社会・文化領域で自由な生き方を追求する動きが広がった。それは経済成長を前提とした福祉国家、画一的な社会保障制度、さらには管理社会化への反発でもあった。

1960年代の後半から70年代にかけて先進国では若者を中心に様々な抗議運動や社会運動が頻発した。リベラル・コンセンサスが健在な時代には、先の「生産性の政治」への合意が作られ、イデオロギー対立は下火となり、社会の紛争は鎮静化していた。ところが、従来の労働運動とは全く異なる担い手である「若者、女性、教育水準の高い中産階級によって、突如として対抗運動が発生した」。著者はこうした新しい動きのことを「文化的リベラルの登場」と呼ぶ。そして、先に少し言及したように、この文化的リベラルの広がりによって政治の磁場に国家か市場かという対立軸に代わって、あるいは加えて、リベラルか保守かという軸が浮上してきたと見る。

こうした文化的価値観の対立の基底には、改めて指摘するまでもなく産業構造のサービス化や情報化という変化があった。一般論としていえば、定型的な業務に従事する工場労働者、事務労働者は、保守的な価値観を内面化しやすい。一方、対人サービス業や専門職では、個々人の状況判断、水平的なコミュニケーション、情報処理などが重要であり、こうした仕事を担う人々はリベラルな価値観を抱きやすいという。サービス経済化やポスト工業化に伴って、リベラルな価値観を持つ人々が都市部を中心に増えていき、社会文化的な「リベラル-保守」という対立軸が鮮明になっていく。ちなみに、これまで左派政党の支持者とされてきた製造業の労働者は新しい対立軸のもとでは保守と位置づけられる。

産業構造のこのような変化からすれば、リベラルの政治的可能性は大きなものであったはずである。しかし、現実の政治場面では、例えばヨーロッパの左派リベラル政党は伸び悩んだ。なぜ文化的リベラルは広がらなかったのか。

著者の説明はこうである。90年代以降になると、グローバル化とともに労働市場の変容が進み、中産階級を含む多くの人々が経済的不安定にさらされるようになった。新しい社会運動も、アイデンティティや生活様式をめぐるものから、社会的排除・ホームレス問題、障害者運動などへと変質していった。また、再分配や構造的不平等への関与が不十分であったともいわれる。いいかえれば、選択肢となりうるトータルな政策体系を持つまでには至らなかったということだろう。とはいえ、リベラルに親和的な、こうした社会層を中軸とした政治勢力の結集がないと、あとで触れるような新しい政治への展望は生まれない。

ワークフェア競争国家へ

新自由主義が社会的危機の深まりの中で後景に退きつつあるとき新たに登場してきたのが「ワークフェア競争国家」である。1990年代以降、新自由主義を部分的に修正し、より広い社会層の同意を得ようとしたのがブレアのイギリス労働党、クリントンのアメリカ民主党だった。彼らは従来の支持層、つまり労働者やマイノリティ層から自らを切り離し、グローバルな経済競争に直面する産業部門で働く中産階級を支持層に組み込もうとした。

それが、「グローバルな経済競争に積極的に適応し、人々を就労へと駆り立てるような新しい国家像」としての「ワークフェア競争国家」である。市場活力を重視し、経済的繁栄を最優先すべき価値とみなす点では新自由主義国家と共通する。しかし、新自由主義がもっぱら国家の役割を市場へと置き換えようとするのに対して、ワークフェア競争国家は人びとを市場へと動員する国家の強力な役割を認めるのである。

その特徴は3つに整理される。第1は、グローバルな競争に勝つための経済的・社会的条件を国家が積極的に作り出すことである。海外から投資を引き寄せるための産業インフラの整備や金融分野での規制緩和などである。第2は、貧困層・低所得層に対する福祉は「ワークフェア」へと転換する。例えば、失業給付は、職業訓練への参加、就労活動を条件としたものとなる。第3は、国家は民間アクターと協力関係を築き、それらを活用する。公共サービスへの民間企業やNPO,NGOの参入が認められる。官民のパートナーシップで、財政の節約という狙いもある。

著者はいう。ワークフェア国家の基礎にある考え方は、「国家の経済的な繁栄を最も優先すべき価値とみなすことである」。個々人の生き方、社会のあり方は、この目的のために位置づけられる。「教育と福祉がとりわけ重視されたのは、これらの政策が個人のふるまいや道徳にかかわり、支出を増やすことなく個々人を経済競争へと動員できるからである」。

今様に譬えれば、それはコロナ・ウイルスの変異株のようであり、新自由主義の遺伝子を色濃く引き継ぎ、悪いことに国家の力を上乗せして感染力を一段と強めている。日本でいえば、小泉政権は新自由主義的であったが、安倍政権以降はワークフェア競争国家に傾斜している。実際、大金融緩和や株価の操作などなど経済への政府介入もめだつ。もっとも、安倍政権にはそんな戦略性はなく、行き当たりばったりだったともみえるが、客観的には新しい時代のトレンドの中にあったのだろう。

リベラルを軸とした多様な人々の連携を 

もう紙幅が尽き始めているが、最後にもう一つ本書の評価すべき点を挙げておこう。それは以上のような明快な現状分析を、あるべき政策へとつなげている点である。タイムリーな政策作りのためには、政策の対象はだれか、どういう政策が求められているのか、政策に共鳴してくれる人はだれかが明確になっていなければならない。

政治勢力が支持を競い合う選挙民の大半は、いうまでもなく働く人々であり、その現代的特徴は正規労働者からなるインサイダーと非正規で不安定なアウトサイダーへの二分化である。さらにインサイダー内部においてもリベラルと保守の分裂が生まれている。伝統的な製造業で働く工場労働者や定型的業務に従事する人は従来型の福祉国家を擁護する。しかし、彼らはグローバル化やポスト工業化で、かつての安定した立場を失いつつある。古き良き時代にこだわるという点では保守化する(トランプ支持層を見よ)。

一方、インサイダーの中でも高技能のサービス業、専門職に就く人びとは、働き方や世帯構造の多様化から生じてくる「新しい社会的リスク」への対応を求める。加えて、彼らの仕事では個々人の状況判断、水平的なコミュニケーション、情報処理などがメインであり、リベラルな価値観を内面化しやすいという。そして、「すべての人が能力と技能を伸ばす平等な機会を与えられるべきだというリベラルな理念」と結びつく傾向がある。

こうした働く人々の分化の中で、リベラルな多数派を形成していくためには、福祉国家の中身を「古い社会的リスク」から「新しい社会的リスク」の対応へと転換させることが重要だ。ちなみに「古い社会的リスク」とは、製造業が中心だった時代の「男性稼ぎ主モデル」のもとでの失業や病気による貧困化リスクである。もちろんアウトサイダーも新しい社会的リスクにさらされているから、ここにおいてはインサイダーとアウトサイダーは連携できる。

不安定化している伝統的な製造業労働者に向けても、その困難を新しい社会的リスクととらえ、手厚い職業転換策が推進されれば、インサイダー内部の分裂も小さなものとなろう。こうしてインサイダーとアウトサイダー、それぞれの内部での分岐に対して連携の道筋を開くことができる。

政策提案の詳細を紹介する暇はないが、たしかに今日では様々な利益とリスクを抱えた人々を結びつけ、説得するための理念と政策パッケージがますます重要になっている。そして、リベラルな政策を実現するには、リベラルな価値観を持つインサイダーを代表する労働組合とアウトサイダーの利益を集約する社会運動の間に協力や連携を形成することがカギであると著者は喝破している。この辺りは伸び悩む日本のリベラル政党に大いに参考になるのではないか。

本書はさらに、排外主義やポピュリズムとのリベラルの戦い、日本のリベラルの問題点など重要な議論を展開している。しかし、もう紙幅は尽きた。本稿を読まれた方にはぜひ通読をお願いしたい。

みやざき・とおる

1947年生まれ。日本評論社『経済評論』編集長、(財)国民経済研究協会研究部長を経て日本女子大、法政大、早稲田大などで講師。2009年から2年間内閣府参与。現在、本誌編集委員、生活クラブ生協のシンクタンク「市民セクター政策機構」理事。

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