コラム/温故知新

東京下町の労働運動と東大セツルメント

下町の労働運動史を探訪する(7)

現代の労働研究会代表 小畑 精武

1.東大セツルメントの設立と労働者教育

関東大震災とセツルメント建設

1923年9月1日(大正12年)、関東大震災の報を聞きつけ翌日神戸から船で真っ先に駆けつけたのが神戸でキリスト教の布教活動を行い労働運動、社会運動をすすめていた賀川豊彦だった。同じころ、東京帝国大学の学生38人は夏休みに当時日本の委任統治領であった南洋に視察に行き、帰途9月1日八丈島の沖合で大地震発生の無線を受けた。

翌2日に横須賀へ着いたものの鉄道は不通、横浜に回って上陸。そのまま東大へ戻ると、すでに2000人を超える人々が構内へ避難していた。その後法学部の末広巌太郎教授や穂積重遠教授たちと構内での救援活動を続け大きな成果を上げた。救援活動は10月10日に解散式を迎えた。

しかし、「救援活動」は終わらなかった。下町現地で救援活動を続けていた賀川豊彦からの要請もあり、救援活動に参加してきた末広厳太郎教授や学生たちは大学自身の「大学拡張運動(大学などが主催し成人を対象とする教育活動でセツルメントもその一つ)」の流れの中で、さらに現場に入って活動するセツルメント建設に着手、1923年12月に第1回の総会が開かれた。

事業として成人教育部、調査部、児童部、医療部、法律相談部、市民図書館の六部を決め、教育部は労働学校の開設、調査部は地域の戸口調査、医療部は診療所開設を決めた。近くにはすでに1917年に下町本所に無料の東京帝大基督教青年会(東大YMCA)有志が設立した賛育会があった。当初は猿江裏町(現江東区)が予定されていたが、労働者が多い街ということで柳島元町(現墨田区、後に横川橋に町名変更)が選ばれ、翌24年6月にセツルメントハウスが完成する。

セツルメントは資本主義が生み出す貧困に対して、宗教家や学生が都市の貧困地区に自ら居住して宿泊所、託児所、教育、医療活動などの社会事業を行う活動で、19世紀にイギリスで始まっている。セツルメントには9人がレジデントとして定住し、通いの学生を含め20人以上が参加。末広教授は労働法制、穂積重遠(男爵、貴族院議員)教授は法律相談や講義「日常生活に必要な法律の話」を担当した。

穂積重遠は父が東京帝国大学の初代法学部長・穂積陳重(若干24歳)で渋沢栄一が祖父である。陳重は渋沢栄一の長女歌子と結婚、二人は下町深川の渋沢邸の一角に住み、そこで重遠が生まれた。穂積一家はまさに“華麗なる一族”であった。重遠がすすめた東京帝国大学セツルメントの建設は、養育院の院長なども務め実践にも力を入れた祖父渋沢栄一から受け継いだ社会事業への関心の深さから来ているといえよう。セツルメントにとって男爵家の穂積重遠は圧力を増す対政府への防波堤でもあった。

以下は建設・開設資金であるが、後には考えられない文部省からの資金もあった。

1、文部省から東大震災情報局への礼金2500円(現在では約1250万円)

2、帰省中の学生が集めた資金1000円

3、震災地図の原稿料1000円

4、東大新人会九州募金4000円(代表者林房雄)など

さらに、末広教授の寄付、木材やスレートなど現物支給での支援の売却金を加えて総額23,000円が集められた。

(写真1)建設当時のセツルメントハウス

労働学校に90人の応募

調査部はさっそく調査を実施。戸口調査を24年6月に実施し、柳島元町の大部分が農村部から越してきた壮年労働者とその家族で、92%がバラックに住み、一部屋のみが47%、二室が27%。電灯は一灯が3分の2。342の家族のうち窓がない家は100、一つが146だった。

9月には教育部による労働学校が開校。「労働者階級それ自身のための教育」を本科。英語、国語、算術、代数などの専科があり、本科だけで90名以上の応募があり定員をオーバー、面接で63人が入学した。入学申込書(1929年・昭和4年)には、期間9月20日~12月5日、月水金の午後7時~9時。授業料は月50銭、入学金なし、教科書不用とある。

課目には戦後に労働法づくりをすすめることになる末広厳太郎教授が労働法制を担当、経済学、日本資本主義発達史、組合論、社会史、政治理論、労働運動史、農民問題、明治政治史、進化論、労働衛生などが紹介されている。東京帝大で教えている教授、助教授、講師が講義を担当した。講師と生徒の間をチューター(助手、助言者)が世話をし、教える役割も担った。

28年当時の生徒は25人ほどで未組織労働者が多く、右派、中間派組合の組合員もいた。セツラーも生徒の討論に参加し、教材をつくったり研究会をやったり、工場生活の実状を学んだ(「東京帝大新人会の記録」)。30年には労働学校への希望者が増え1月入学の第14期には生徒77人、卒業生21人、3月の15期には入学者123人、卒業生36人と開設以来の最盛期を迎えている。この時期の生徒増には、これまでの工場労働者から自由労働者(日雇い、失業者など)や朝鮮人労働者33人へとシフトしている。この頃は亀戸の東洋モスリンの闘いをはじめ、戦前労働運動がもっとも高揚した時期でもあった。

学生の多くは「ヴ・ナロード(人民のなかへ)」を掲げる東大新人会のメンバーだった。彼らは近くにあり、「学生の巣」になっている労農党江東事務所にいつも3、4人が手伝いに行き、ゴロゴロしていた。

当時のことを社会党の副委員長を務めた山花秀夫は『回顧録』で、「集まった学生たちは毎晩ブハーリンとスターリンの論争などをしていました。この事務所の近くに新人会が実践運動をすると言い、社会福祉の団体でもある帝大セツルメントが震災を機にでき、そこで労働学校などもおこなわれていました。当時の私は月のうち10日は働き、20日運動するという生活でしたが、私もこの労働学校に通っていました」

「事務所へよくきていた人たちはみな非常にまじめな学生たちでした。主にセツルメントの仕事を手伝っていましたが、なかには共産党員もいました。・・そして東京合同労働組合の常任やストライキマンと言ってストライキの時だけ手伝う人たちもいました。だから深く、『共産党宣言』を読むとか、共産党の勉強をするとかではなく、当時発行されていた労働農民党の機関紙や『無産者新聞』で勉強していたようです。当時の私は学生たちの議論にはあまり関心がなく、ストライキや団体交渉、争議団へアジリに行くことを中心にしていました」と回想している。

(写真2)「労働学校入学申込書」(1929年)

活動家を生み出した労働学校

労働学校第一期卒業生には戦後社会党国会議員になった東京合同労組(前身は渡辺政之輔の南葛労働会)の山花秀雄がいる。山花は当時の女性の花形職業であったバス車掌の久田てるみと結婚、山花貞夫(後に弁護士、社会党委員長)が生まれている。てるみは東京乗合自動車現業会に所属。労働組合の闘いで生理休暇3日を獲得しているが、生理休暇は無給のためよほど苦しくならない限り休まなかった。結婚後はセツルがつくった柳島消費組合で働いている。

山花秀雄は労働学校卒業時には、セツルメントと同じ町内にあった労農党本所支部に所属していた。翌年には牛乳販売店の争議指導で検挙され市ヶ谷刑務所に入獄、生涯に検挙・勾留は百数十回を数える。1929年には新労農党の中央執行委員・青年部長に選ばれ、31年には日本労働組合評議会を結成して中央執行委員。戦後は労働組合再建をすすめ、46年7月総同盟関東化学労働組合を結成して委員長。8月総同盟第一回全国大会で中央委員・政治部長、52年の総評結成にも参画。長男の貞夫は後に日本社会党委員長、孫の山花郁夫は現在立憲民主党の衆議院議員として活動している。

他にも、第一期生には戦後社会党の国会議員になった足鹿覚、市民学校には戦後東部から南部に移って石井鉄工など労働組合の組織化はじめ南部労働運動のリーダーとなった元衆議院議員(元大田区議会議員)の共産党伊藤憲一がいる。

労働学校は、26年(昭和元年)から2段階に入った。講義は高いレベルで行われていたが、28年3月15日と翌年4月16日の共産党一斉検挙でチューターの半数が検挙された。東大新人会は28年4月17日に大学の緊急評議会が開かれ解散が決議発令された。

洋モス争議とセツルメント

30年(昭和5年)10月の東洋モスリン争議の最終段階で加藤勘十などが主張する「10・24地域ゼネスト」が打ち出された。その決定の場が10月7日の第1回工場代表者会議であり、東大セツルメントが会場であった。

そこで、争議の応援団長・加藤勘十(ストライキマンとして名を馳せた。組合同盟組織部長)は地域工場代表者会議を基礎とし「東洋モスリン争議を契機として地域的ゼネスト体制をつくろうというのが、われわれの目的だった。全協(共産党系)はいわゆる工場代表者会議を拠点にしていたが、全協では人が集まらない、そこでわれわれ合法性をもった者が、同じ戦術だから、名前も同じ工代会議で集められるだけ、・・・小さな工場の労働者も集めて、地域工代会議というものを設けた」と回想している。そこには、東京交通労働組合柳島支部はじめ江東地方労働争議応援委員会に加入する15組合が参加している。この頃、以下の争議が当時下町で闘われていた。

東洋モスリン(4951名)、広藤製革工場(16名、うち朝鮮人2名、中国人1名)、桜井製紙工場(45名、うち女性25名)、鐘紡隅田工場(3097名、うち女性2396名)、大日本アスファルト工業亀戸工場(36名、うち女性5名、)、坪井友禅工場(80名、うち女性9名)、前田鉄工所(190名)、大島製鋼所(278名)、葛飾汽船(35名)、城東電車(160名)、大和ゴム製作所(270名、うち女性100名)、第一製薬亀戸工場(43名うち女性11名)―(鈴木祐子『女工と労働争議』)。

工代会議は「吾等は労働者の闘争力を全工場職場から戦線に集中し、洋モス争議並びに各葬儀を徹底的に応援し資本家の狂暴なる攻勢と官憲の防圧を粉砕せんとす」と決議し、10月24日の「地域ゼネスト」に入って亀戸は「市街戦」の戦場となっていく。

しかし、女工たちは「寄宿舎(自宅、下宿)に待機する」ことになっていたので、通勤女工が外出してデモ隊に加わった。さらにメーデー歌を下宿物干しで歌っているところを検挙されたりして、「市街戦」戦術は敗北を余儀なくされた。

労働運動への圧力はセツルへの圧力へと広まっていった。労働学校が講義のみならず組織活動を行っていると政治的圧力が加えられ、入学を阻止する動きが色々な手段をもって始まり、入学者が減っていった。とくに資金面がだんだんと苦しくなっていった。

(写真3)東洋モスリン争議支援

2.セツルメントの活動内容とその後

法律相談

 当初は「法律人事相談所」の看板を掲げたが開店休業状態であった。26年(大正15年)秋に穂積教授はじめ態勢を大きくし、それが新聞に大きく報道され、相談者が押しかける状態になった。しかし、「貧しい人々への法知識の分与」の目的とはかけ離れ、「貧しい人々には法利用が困難な社会事情があり、華々しい効果を挙げることはできなかったが、法律救済と実証的研究に於いて、我が国初の事業として大きな意義があった」(「東京帝国大学新人会の記録」)

 争議が活発に闘われた1930年は、法相部に持ち込まれた件数が最も多く、年間330件で借地借家関係と婚姻離婚関係で41.6%を占めている。

医療部と労災補償法の原点

 医療部は診療所を持ち、帝大医学部の教授、看護師、医療部員が協力した。開設後半年もたたないうちに、立派な医者が安く医療を施してくれると東京全市から患者が集まった。

 関東大震災で破壊された隅田川に架かる橋(相生橋、永代橋、清洲橋、両国橋、蔵前橋、厩橋、駒形橋、吾妻橋、言問橋)が震災復興橋として架け替えがすすむ。そこで働く労働者の中には橋の基礎工事のために高圧の潜函に入って病気になった労働者がいたが、セツルメントの医療部ではなかなか診断が出来なかった。東大の文献で調べた結果、ケーソン病であることが判明。医療部のセツラーたちは専門家の末広教授に報告、相談し教示を仰いだ。

 当時は工場労働者には工場法が適用され、傷病保護があったが、屋外労働者にはなかった。仕事で怪我をした場合の休暇は欠勤となり、賃金がもらえないばかりか、治療費も自己負担。直接生活にひびき貧苦にあえぐ状況を生み出していた。

 末広教授は新しい立法措置の必要を認め、帝国議会への請願をすすめる。セツラーたちは請願書をつくり署名運動を行い350人の屋外労働者の署名を集め、清瀬一郎弁護士(後の東京裁判弁護人、衆議院議長)を紹介者として議会へ提出。請願はただちに採択され、翌年「労働者災害扶助法」(1931年・昭和6年)として公布され、戦後の労働者災害補償保険法の原点となった。

児童部の唱歌指導

 児童部はセツルハウス落成の日に始まった。「それまでのじめじめした路地が遊び場であった子供たちにとってセツルメントは物珍しさもあって、格好の遊び場になった。100人から200人にも及ぶ子どもがハウスの中に入ってくる。この子どもたちを外に出すことがまず仕事で、運動場で遊ぶ、ベランダで話をすることから、日課が始まった」。ブランコも、鉄棒も、図書室もあった。山花秀雄の長女郁子、長男貞夫も通っている。しかし本の数は少なく、金持ちの家を回って児童書を寄付してもらった。

 後に「歌ごえ運動」で有名になる良家の関鑑子(戦後の「うたごえ」運動の主導者)も唱歌指導のためにセツルメントを訪れている。このことは新聞にも取り上げられ、関は友人から寄付を集めピアノをセツルに寄付した。ピクニックや夏季臨海学校も開かれている。

 

(写真4)関鑑子による児童部唱歌指導(1925年)

託児部の誕生

 児童部の活動から託児部(保育園)が生まれる。同じ地域の賛育会では乳幼児の生活保護を目的とする託児所を設け、セツルにおいても機運が高まり1925年には15人の幼児を集め、中庭のベランダ、砂場と子ども室を利用して、ミニ託児所を開設している。

 26年4月には託児所が正式に開設され、翌27年には児童館も建設され、保母も2名に増員。研究熱心なセツラーたちは他園の見学や研究を通じて独創的な託児システムをつくり、児童部も独自のテキストをつくるなど総合的教育がめざされた。

 当時無産者の託児所をつくる運動が広がっていた。賛育会で長男を生んだ松田解子(ときこ)は出産の状況を「産む」に書いて読売新聞の懸賞に応募し入選を得て作家となった。プロレタリア作家同盟員になった松田は当時の体験を「回想の森」にまとめ「帝大セツルメントと亀戸託児所」を書いている。松田は「わたしの場合はまっさきに託児所が必要だった。最初は同潤会アパートのまん前の帝大セツルメント児童部託児所に長男を預ってもらった・・。入れ替わり面倒をみて下さった保母さんが・・・当時としては、少数の高い学歴に恵まれた、まだうら若い知識女性であったが、わたしも周辺の母親たちとともに心からの信頼をもってこの人々にわが子をお願いした」。

世界大恐慌の影響もまだ大きかった30年春のあずかり料はおやつ代として毎日4銭、保育料として毎月4円だった。預ける家庭は工場労働者と職人が多く、つぎが商店主や市電従業員などで、母親は手内職が圧倒的に多く、女工、小商人、店番、家内工業手伝、事務員と続いている。託児所の経営は楽ではなかった。

毎日上記の職業の子どもたちが40~50人、保母が2~3人、収入は31年の1か月平均50円が最高で、その後年々減って35年には月平均38円に下がっていった。当時の師範学校出の女性教員の月俸42円から見ると極めて低く、「給料を度外視していた」保母たちは、松田たち亀戸地区の無産者にとってかけがいのない恩人であった。

(写真5)セツルハウスと子どもたち

 

セツルの生活協同(消費)組合化

 セツルをいつまでも「上から与える」ものではなく、労働学校で目覚めた労働者が自主管理する消費組合にしていくことがセツルメント内部での論争を経て決まり、26年11月総会でゴーサインが出され柳島消費組合が設立された。同時に三河島と浅草にも消費組合が誕生した。だが「組合員募集」のビラを電柱に張って歩いたが、一人も来ない。次に訪問カードを持ってセツル周辺を軒並み訪問。ようやく8月1日には182人で柳島消費組合が発足に至った。児童館玄関前が仮の配給所になり、米、みそ、醤油、砂糖、茶、サイダー、石鹸、歯磨き粉、マッチの9種類の生活必需品が並んだ。

 高い理想のもとに出発した生協だったが、採算をとることが難しく、学生の出入りも激しく、4年目には廃止論が現れる。その後柳島消費組合は関東消費組合に加入していく。セツルとの混同をさけるため地元労組員を消費組合長にした。しかし時期尚早で組合の弱体化につながり、やがて経営難に直面していく。

3.権力の弾圧でやむなく閉鎖へ

労働学校募集のポスター貼り

28年(昭和3年)春3・15事件で全国1600名の共産党、左翼活動家が検挙され、484名が起訴された。労働学校でも講師の半数が逮捕され、セツラーと生徒の減少のために労働学校は一時休校に追い込まれた。セツルに起居していた武田麟太郎(「日本三文オペラ」の著者)は労働学校での仕事として、労働学校生徒募集のポスターを何十枚も書き、古い無産者新聞に横細縦太の扁平な字体を発明して書いた。

「ポスター貼りは糊を『バケツ』にいれ刷毛を持って、亀戸、大島、吾嬬、寺島の方々へ貼って歩いた。また、募集のビラも完成し、大きな目標工場の出勤時間をねらって撒布した。生徒は100人近くの申し込みがあった」と労働学校生徒募集の様子を描いている。

金解禁による経済不況、世界大恐慌のなかで、労働学校への希望は高まった。30年1月の第14期労働学校には入学生徒77名、卒業生21名、3月の第15期には入学者123名、卒業生36名と開設以来最高となった。これまでの工場労働者に加え、自由労働者、朝鮮労働者(33名)が増えてきた。居住するレジデントが12名、セツラーが40名に増加したことも拡大の要因だった。

東大学内で社会科学研究会、新人会の組織があいついで解散した後、「セツラーは唯一の残された組織となった」のだ。しかし、31年の満州事変を契機に再び縮小に入り、32年(昭和7年)9月第24期が生徒8人、出席者数人になったので、セツルメントの中心的事業として運営されてきた労働学校は9月末に閉鎖となった。

延べ260余名の東大生が参画

セツルは医療、託児、児童など地道な社会事業的な活動を前面に掲げ続けられていった。それでも官憲の弾圧は徐々にこの分野にも広がってくる。医療部からも共産党シンパ事件で逮捕者が出され、拘留一か月後に免官される事件があった。33年には東大美濃部達吉教授の天皇機関説が批判される。セツルの大黒柱であり男爵・貴族院議員でもあった穂積重遠東大教授は必死に防波堤となって文部、内務、特高部からの解散の圧力に耐え東大セツルとしての活動を続けていった。労働者教育部は図書館となり、老朽化した建物も37年に改築された。

しかし、セツルメント自体が左翼的であり、左翼団体と関係があると貴族院において批判され曲解されていた。セツルメントの名称も「大学隣保館」と改める改革案にも監督官庁は難色を示し、穂積重遠は自主解散の判断を余儀なくされた。28年から延べ260名余の学生が参画、70名余が検挙された「下町のコンミューン」「貧しい人々の救済」をめざした東大セツルメントは38年(昭和13年)2月ついに追い込まれ閉鎖となった。

(写真6)セツルの閉鎖を報じる記事

安倍首相に聴かせたい

セツラーの中に60年安保時に警察庁長官となる柏村信雄がいた。時の首相岸信介は柏村警察庁長官を呼んで「ただちにこの違法なデモ隊を排除せよ」と迫った。これに対して、柏村は「今日の混乱した事態は、反安保・反米ではなく、反岸です。このデモ隊を警棒や催涙ガスで排除することは不可能です。残された道はただ一つ、あなたが国民の声を無視した姿勢を正すしかありません」と敢然と答えた。安倍に聴かせたい!

【参考文献】

石堂清倫、竪山利忠編『東京帝大新人会の記録』(経済往来社、1976)

伊藤憲一『南葛から南部へ‐解放戦士別伝』(医療図書出版社、1974)

大村敦志『穂積重遠』(ミネルヴァ書房、2013)

鈴木祐子『女工と労働争議』(れんが書房新社、1989)

松田解子『回想の森』(新日本出版社、1979)

宮田親平『だれが風を見たでしょう-ボランティアの原点・東大セツルメント物語』(文藝春秋、1995)

山花秀雄『山花秀雄回顧録』(日本社会党中央本部機関紙局、1979)

おばた・よしたけ

1945年生まれ。東京教育大学卒。69年江戸川地区労オルグ、84年江戸川ユニオン結成、同書記長。90年コミュニティユニオン全国ネットワーク初代事務局長。92年自治労本部オルグ公共サービス民間労組協議会事務局長。現在、現代の労働研究会代表。現代の理論編集委員。著書に「コミュニティユニオン宣言」(共著、第一書林)、「社会運動ユニオニズム」(共著、緑風出版)、「公契約条例入門」(旬報社)、「アメリカの労働社会を読む事典」(共著、明石書店)

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