特集 ●第4の権力―メディアが問われる
揺れる教育とメディア~深刻なデマと排外主義に抗うには
歴史から目を背けず、現実を直視するほかない――自由ジャーナリストクラブ講演から
毎日放送ディレクター 斉加 尚代
毎日放送ディレクターの斉加尚代と申します。1987年4月に入社、その前年に男女雇用機会均等法が施行、MBSの均等法第1期生です。89年記者になって以降、ニュース現場で仕事を続けてきました。2015年に報道局内の異動でドキュメンタリー担当ディレクターに。報道ドキュメンタリー『映像シリーズ』は1980年にスタートし、先輩方が非常に優れた作品を輩出してくださって昨年40周年を迎えます。
毎月最終日曜日深夜0時50分から1時間の放送枠(近畿エリア)で年間12本をディレクター4人が主に制作しています。今年3月まではドキュメンタリー報道部という部署でしたが、4月に組織改編され、現在は報道情報局編集部の一員です。この社内事情を喋り出すと1時間では収まらないと思いますので割愛します。
最新作から感じたこと
今年5月に放送した新作『映像’21 ソンセンニムと子どもたち~御幸森小学校 半年間の記録」は、大阪市立御幸森小学校の閉校までを取材した作品です。生野区にある御幸森小の児童は75人、約7割の子どもが朝鮮半島にルーツのある在日コリアンです。週に1回、放課後に自らのルーツや歴史を学ぶ「民族学級」に通っています。チャンゴなど打楽器で伝統音楽を披露する最後の発表会がコロナ禍で紆余曲折の末、2月に行われました。
「民族学級」を指導するのがソンセンニム、朝鮮語で先生という意味です。在日3世の常勤講師、洪佑恭(ホンウゴン)さんと昨年初めて出会った時の印象が、御幸森を取材したいと思ったきっかけです。「日本ルーツの卒業生が街中で大きな声で『ソンセンニム!』と駆け寄ってきてくれる」。公立小学校で学び、ソンセンニムを慕う子ども達がいる。ステキなことだと感じます。発表会前日、コリアンルーツ以外の子どもが「私もお母さんが生まれた中国のルーツを大事にしたいと思えるようになった」とクラスメートに打ち明けます。ルーツは違うけれどお互いを認め合い、思いを寄せあう瞬間。
最後の発表会を無事に終えた6年生の一人は「最高の一日」「最後の卒業生という称号は誰にも奪われない」と感想文に思いを綴ります。学校は共に学び、共に探求し、子ども一人ひとりが尊重され、成長する場なんだとあらためて実感しました。
番組に対する視聴者の感想、その感想のギャップが社会を象徴しています。まず好意的な感想から。「日本では差別というのが常識のようにあります、しかも攻撃的になっています。そうした状況を大人はどうするのかというメッセージが伝わる良い番組でした」。
一方、こんな感想も。「この学校の日本人の子どもはどうなってるんや。日本人がおらん感じやったから納得しがたい」。両親とも日本人の子はマイノリティーですと紹介し、「多文化共生」「心に平和の砦を築く」ユネスコスクールに認定されていると説明していますが、納得いかないようです。さらにもう一人、在日の子どもが「民族名」を名乗ることについて「創始改名は自己申告で任意だった、決して強制ではなかったのに、放送が史実と違うことをさりげなく入れている。アウトではないか」というお叱りも。歴史認識の歪みが非常に根深い問題になっています。
放送直後は、子ども達に嫌がらせやヘイトの矢が飛んでいったら私は何ができるだろうかと不安になってしばらく寝付けませんでした。マイノリティーを排斥する社会の暗い空気はどこから生まれたのだろうかと考えた時、教育基本法の改正がひとつのポイントだと思います。
教育関連法改正の流れと社会の変化
戦後教育の最大の転換点である2006年の教育基本法改正、これは大きかったんじゃないかと考えています。愛国心条項を基本法に盛り込んだのは第1次安倍政権、安倍氏の肝いりです。愛国条項が入っても学校はさほど変わらないと思っていた先生は当時少なくなかったようです。教育基本法改正の反対運動は、激しく継続するものではなかった。さらに旧法第10条の「不当な支配に服することなく」という条文が残り、教育への政治介入を排することができるじゃないか、そんな意見も聞かれました。
改正前は「国民の全体に対して直接に責任を負う」という責務が教員に課せられていたんですが、この条文は消され、「法律の定めるところによる」と改訂されたことによって、法律を守っていればいいんだ、ルールにさえ従えばいい、という心理状態に教員が少しずつ変えられてしまったのではと思います。
この2006年に誕生したのがヘイトスピーチ団体「在日特権を許さない市民の会」=「在特会」です。現在の日本第一党の桜井誠氏が立ち上げたグループで、2009年に京都の朝鮮学校を襲撃する事件を起こします。2011年大阪府の国旗国歌条例が成立、橋下徹氏が率いる大阪維新の会が「政治主導の教育改革」を展開し、数の力に任せて教育関連条例を次々作ります。維新の勢力拡大と流れを一にして12年12月に第2次安倍内閣が誕生。このころからヘイトスピーチが激化、東京の新大久保で旭日旗を振ってパレードする人たちが現れます。
2013年、翁長雄志那覇市長(当時)を先頭に沖縄の自治体首長たちが銀座をデモ行進し、米軍輸送機オスプレイの配備撤回を訴えますが、その沖縄の人びとの列に「売国奴」「中国の手先」と誹謗中傷がぶつけられる。「売国奴」と声をあげる集団を見て見ぬふりをして通り過ぎる大勢の日本人に違和感を覚えた、とその後沖縄県知事に就任した翁長氏は繰り返し語りました。この年、東京五輪の招致が決まります。
教育委員会制度が大きく変わったのが2014年。自治体の首長が協議して「教育大綱」を作るという仕組みになり、それまでは教育委員の合議で選出される教育委員長が存在し、かろうじて独立を保ったのに対し、首長が任命する教育長に一本化することによって、首長の意向に沿う教育委員会に変化します。同年、教科書検定基準が改定。歴史学者で国学院大学教授だった上山和雄さんが当時、この検定基準の改訂はおかしいと検定調査審議会で異議を唱えました。しかし政権に忖度した文科省の筋書き通り検定基準が改定され、歴史の教科書には政府の統一見解を入れると決まります。教科書は本来、学術的知見に基づくものなのに、学問の真理と異なっても「政府見解」が反映されてゆきます。
安倍政権下でさらに2018年小学校、翌年に中学校道徳が教科として復活し、2020年9月に菅義偉政権が誕生、日本学術会議の新会員6人が任命拒否されます。教育や教科書の問題からいよいよ学問全体、学術そのものに政治権力が介入する深刻な事態に陥ってしまった。大きな流れから考えると、民主主義の根幹を揺るがす良くない方向へ進んでいるんじゃないかと感じられます。
メディア激変とヘイトブログの威力
教育現場の大きな流れとともにメディア状況の激変が影を落としています。テレビよりインターネットやSNSに接触する人が増えました。総務省と東大の共同研究(2019年)によれば、世の中の出来事や動きを知るための情報を得るのに利用するメディアは、テレビが少しインターネットを上回っていますが、五十代以上は情報を新聞から得ています。それ以下の世代は新聞をほとんど読みません。テレビを利用する層もテレビと接触する時間が減っている。
娯楽エンタメについてはもうテレビはインターネットにすっかり負けている。みんなが YouTube などの配信で娯楽情報を得ています。教育現場の変化とメディア接触の変化という双方の影響から、国内の言論空間が大きな変革期を迎えている。そう感じて制作したのが、2018年の「映像‘18 バッシング~その発信源の背後に何が~」という作品です。冒頭のナレーションはこうです。
『民主主義の土台が今ぐらついている。議論を重ね物事を決定していくプロセスこそが重要であるはずの民主主義。しかし、対話どころか極論や決めつけが飛び交う空間で、バッシングが燃え盛る』
バッシングの対象として「反日研究に科研費を使うな」と自民党国会議員の杉田水脈氏から槍玉にあげられた学者や懲戒請求に翻弄される弁護士を取材、いずれも専門知を持つ人達です。
懲戒処分を求める書面が次々送られてきた佐々木亮弁護士。懲戒すべきとする理由は全て同じ。朝鮮学校への補助金を支給するべきとする日本弁護士連合会の声明に賛同し、その活動を進めることは、確信的犯罪行為に当たる、というものです。懲戒請求を送った人たちに直接会って取材すると、“不正の中身”を知らない人が少なくない。そんな人びとを扇動したと思われるブログ『余命三年時事日記』の主宰者は、在日韓国・朝鮮人を蔑んで日本人と敵対させる内容をブログに掲載しています。電話取材に対し、「あれはコピペだ」「事実をコピペしただけだ」と言い訳します。
日弁連は在日コリアンに乗っ取られているとするブログの発信によって、全国各地の弁護士に計13万件もの懲戒請求が押し寄せました。実際にブログを書いた主宰者は何ら反省もしていません。弁護士の業務妨害にも責任を感じず、単に言説をコピーして並べただけだと言い張りました。彼が言うにはブログの読者がどんどん増え、カンパを呼びかけると何百万円もの寄付が集まってウハウハだったと。さらにブログの影響力を大きくしたのが、儲けを狙って書籍化した出版社の青林堂です。「韓国や在日、サヨクが知られたくない情報の暴露」と宣伝し、過去の歴史を歪め、他国やマイノリティーを貶める言説をビジネスにしています。
この取材で強く印象に残ったのが、懲戒請求をした人達が、実際にその弁護士が不正を働いていたのか、何が問題だったのかということをきちんと理解せず、深く考えずに弁護士に辞めろと突きつける。見ず知らずの弁護士に向け、あなたはふさわしくない、仕事を辞めろ!と、そういう重大行為が軽い気持ちでできていることが、大変な驚きでした。
ネット空間で常態化する数の操作
青林堂に取材を申し込んだ時、こういう出版社は取材者に何かしら攻撃をしかけてくると予想がつきました。もしネットの攻撃があった場合、どういう内容か分析してもらいたいと事前に ITエンジニアに声をかけます。バッシングの放送時、番組の最後に分析結果をコメントにして流しました。青林堂は公式 Twitter に「アポなしで押しかけてきたブラック記者」と事実を曲げて私を名指しし、過去に流れた動画等をリンクさせ、いかに「反日記者」であるかを拡散します。すると放送前に5300件、放送後47000件ぐらいツイート、リツイートが繰り返されて流れたんです。ここで予想通りの現象が起きます。
2012年当時、橋下元大阪市長と囲み会見で論争した動画が再び流されます。君が代斉唱への口元チェックの是非をめぐって質問を重ねたところ、橋下氏が激高し、不勉強な記者と非難する当時の動画にリンクが張られ拡散していく。これはいま、いろんな記者やディレクターにも例外なく起きることです。たとえば吉村大阪府知事や松井市長に向き合った時、ネット内で名指しされ、記者に中傷が殺到する事態が起きます。命は取られないけれど「記者として殺される」、そんな状況が生まれかねないと言った人もいます。ネット社会の言論空間によって、権力との向き合い方が以前とはまるで異なっているのです。
当時の話に戻すと、『バッシング』取材による名指しツイートを分析したところ、深夜2時や3時、普通なら寝ている時間帯に何百人もがつぶやいている状況でした。これらは人がつぶやいているのではなくボット(ロボットと同義のボットです)が操作して拡散している、つまり自動拡散ソフトによる可能性が高いことがわかってきました。
ネット空間は、常に影響力を大きく見せるため、たくさんのアカウントがその情報を流通させている。そこに様々な数の操作もされる。一人が10人のふりをすることもできるし、AIによる発信、拡散もできる。もちろん真実を告発する貴重な情報や動画もあるんですが、政治的な多数派工作や物量作戦がネット空間では日々繰り広げられているのです。
デマとバッシングの危険性
ヘイト言説をビジネスに変えたり、政治的な勢力拡大に使ったり、ご都合主義の歴史言説を補強する人達の中に著名人が相当います。歴史と公民教科書の発行元「育鵬社」が出版する『日弁連という病』という書籍では、タレントのケントギルバート氏ら論客が在日コリアン弁護士を貶めたり、さっさと朝鮮半島に帰ることができたと捻じ曲げた歴史を吹聴する本が売れてゆく。負の連鎖が起きている事態に危機感を持ちます。
歴史を自分たちに都合のいいようにしか捉えることのできない、歴史歪曲や歴史改ざん主義の人達が、誰かを攻撃する時には、必ずと言っていいほど事実とは異なる内容やデマが混じっています。そのデマが、例えば全く中国とは関係ないのにその中国の手先だとか、乗っ取られてもいないのに乗っ取られているとか。
ヘイトスピーチの問題を語るとき何度も繰り返し指摘することですが、少数者に向けてデマでバッシングしていく、特に政治家や社会的地位のある人が「奴らは敵だ」と標的を定めてしまうと大衆がその集団に攻撃を仕掛ける危険が生まれます。最悪の場合はヘイトクライム、憎悪犯罪に結びついてしまうことは過去の歴史が証明しています。
教育現場の学びが大事だが
では、差別や偏見をなくすために教育はいま、どうなっているかというと、子どもを大事にする先生たちが息苦しさを感じている。安倍前首相の号令で復活した「考え、議論する道徳」。議論するといっても、小中学校で学ぶべき徳目が定められ、22項目が列挙されています。善悪の判断、正直、思いやり、感謝、礼儀など、全てを否定しませんが、集団生活をつつがなくやりましょう、道徳の重心がそこに置かれています。
「社会を乱さないようにしましょう」「自己責任で秩序を保ちましょう」、そう解釈できる徳目が多くあって、この方向へ教育が流されている。現場の先生達も道徳の授業に悩み、疲弊しています。2017年に制作した『映像‘17 教育と愛国~教科書でいま何が起きているのか~』は、この道徳の教科化をきっかけに制作した作品です。これまで道徳が教科にならなかった理由は、子ども達の内面に踏み込んでしまう恐れがあり、国家のための国民になれという戦前の修身に近づくのではないか、そう危惧されたからです。
1950年代の中学校の学習指導要領にはこうした問題点がきちんと書いてあります。
「愛国心は往々にして民族的偏見や排他的感情に連なりやすいものであることを考えて、これを戒めよう」と。そして「世界の他の国々や民族文化を正しく理解し人類愛の精神を培いながら、お互いに特色ある文化を創造して国際社会の一員として誇ることができる存在になろう」と。まさにグローバル社会において必要とされる教育、理念をどう掲げたらよいか、戦後まもない時代に一つのお手本があるじゃないかと思うんです。
一つ例としてお話ししたいのは、自民党が採択に力を入れる「育鵬社」の教科書です。育鵬社の歴史教科書は、戦前の植民地支配や教育勅語を肯定的に描写します。代表執筆者で東大名誉教授の伊藤隆さんはインタビューに対し、この教科書が目指すものは何ですか?との問いに「ちゃんとした日本人を作ること」「左翼ではない」と本音を語ります。「ちゃんとした日本人」というのは道徳的考えとも言えます。「左翼」=「反日」と一面的に決めつけて排することが目的化する保守政治と教育観が結びついているようです。
歴史は本来多面的で深く、教科書も研究が進むにつれて変化します。変わっていくケースはいろいろあるんです。例えば、坂上田村麻呂と戦った蝦夷の首長アテルイはいま中学の教科書全てに載っています。以前は朝廷に盾突く反逆者として扱われ、朝廷に処刑されたという叙述だった。1990年代から東北の民衆の利益を守ろうとしたアテルイが再評価されていく。
安重根も同様です。以前は伊藤博文を暗殺したテロリストと書かれていたのが修正され、民族活動家、朝鮮半島の祖国を思って活動したと教科書に載る。教科書記述が知見とともに変化するのは当然です。ただ、歴史の教科書は、検定基準の改訂を例に挙げるまでもなく、国家権力と結びつく側面がある。
伊藤隆さんは「歴史から学ぶ必要はないんです」とインタビューで述べられ、びっくりした体験のひとつではあるんですが、『なぜ歴史を学ぶのか』(リン・ハント著)に「国民的帰属の感情を注入しようとする試みは通常積極的な捏造を必要とする」とあり、一方で歴史を直視することが捏造への対抗にもなると分析している。その通りだと共感します。近代国家の建設、明治維新の頃から積極的な捏造というものがひたひたと始まり、その流れの中でいたましい敗戦へ帰結し、一旦私たちは反省したんですが、戦後76年経過してその過ちを忘れかけている。「教科書は国民的勝利や悲劇については語るが、政府や国民の過ちや愚行については滅多に語ることはない」とハント氏は述べます。
いま話題になっている日本軍慰安婦をモチーフとする「平和の少女像」など検閲アート作品を集めた「表現の不自由展」に対し、犯罪行為による妨害が頻発しているのは、こうした歴史認識と深く結びつく社会現象であると言えます。
トランプ現象が行きついた先
今年1月、米国の連邦議会議事堂をトランプ大統領を支持する人々が一時占拠しました。この動きを中心的に作り出したと言われるのが、極右の陰謀論をばら撒いた「Qアノン」というグループです。トランプは世界の救世主、秘密結社と戦う英雄だと叫び、一部メディアがそれを垂れ流した。その情報にしか触れない人びとがトランプ氏の「不正選挙」を妄信し、Twitterの書き込みに煽られて5人の犠牲者を出した前代未聞の歴史的襲撃事件です。
これは対岸の火事ではありません。トランプ勝利を信じた日本人も大勢います。なぜ不正選挙を真実だと放送しないのか、そんな抗議が放送局に殺到した。例えば29万人のフォロワーがいる作家の門田隆将氏が、トランプ勝利を報じないのはおかしい、何も感じないなら記者を辞めてしまえ!とツイートを繰り返しました。
女性初の国務長官として活躍したマデレーン・オルブライト氏は著書で警鐘を鳴らしています。もとはチェコ出身の難民でアメリカに渡った経験を持つオルブライト氏は、ヨーロッパを中心に歴史を考察、国際社会で事実や科学を重視しないリーダーに追随する人が増えていると述べています。インターネットの普及により、トランプ氏のような政治家はSNSが大きな武器になっている。「凋落感で苦しんでいる民衆から、逆にエネルギーを吸い上げる。怨恨や鬱憤が深ければ深いほど、現状を刷新する見通しを示したり、失ったものの奪回を誓ったりすることで、ファシストのリーダーは追随者を取り込みやすくする」と指摘します。
利益目的の広告主がSNS情報を利用して特定の消費者にネット上で働きかけることができる、こうしたことが政治にも同じように使われて同じような事を企んだ場合に阻止することができるだろうかと。消費者の側の心理、性格などの特徴を把握し、そこに働きかけやすいような広告を打つシステムは、AIの発達で可能になっています。それらを政治が大々的に使った場合、阻止できるでしょうか。人間としての倫理観をかなぐり捨て、勝敗を喫する仮想ゲーム同然の数字に囚われた大衆が、行き過ぎた競争をけしかける社会を走り続けた先に、何が待ち受けているでしょうか。
テレビ現場を覆うマネタイズと未来
「マネタイズ」という言葉がいまテレビの現場で挨拶のようになっています。ページビュー数の競争、ネット記事の閲覧状況は新聞記者やライターたちも言っていますが、視聴率競争と同様に、読者がどの段落で読みとばしているのか、読まなくなっているのか、データから全てがわかるそうです。この記事はこの辺で読者が離れてしまったと書き手は突きつけられる。頭を抱える記者たちがいます。
メディアは教育現場と似ていると思うんです。数値やテストの点だけなのか、という問いです。その全てを数値化してしまうと創造性は弱まる、壊れるでしょう。だからAIに真似できない創造性というものは、芸術的創造と批判的思考っていうことを教育学者はよく言っています。マネタイズを突き詰めれば、むしろ私たちメディアは弱まるんじゃないかと考えますが、放送業界のトップたちは「民間放送」ではなく「商業放送だ」と躊躇なく言う時代になっている。人びとを不幸に導いた教訓や報道機関として再出発した放送の歴史が忘れられようとしている。
国内政治に関しても「事実に基づいた科学的論理」ではない、トランプ現象にも似た感情を束ねる「感情統治」の問題にテレビは向き合わなければいけないのに、それが十分できているとは言い難い。4歳から49歳に絞ったファミリーコア視聴者層の心をつかむためにはニュースを伝えるにも芸能人や演出が必要だという同調圧力。目先の経済論理がメディアの独立性を非常に危うくし、政治家にも付け込まれ、政治との距離が十分保てなくなっているのではないか。民主主義の根っこを保つために必要なものは何かと常に葛藤しながら仕事を続けています。
スキャンダルまみれの東京五輪が開幕しました。人種や民族による差別が許されないことはすでに国際基準です。にもかかわらず、日本では人権意識やジェンダー平等意識の欠如から、皮肉にも大会組織委員会などの不祥事が相次いだ。それは戦後教育の至らなかった点を意味してはいないでしょうか、テレビも共犯ではないでしょうか。暗澹たる気持ちになったのですが、絶望がまだ足りないのかもしれません。
この絶望の崖っぷちにたたずむ2021年からどう歩みを変えて希望へ繋げてゆくのか。教育もメディアも過去の歴史から目を背けず、現実を直視するほかないと思います。そして「日本人」は単一ではない、多様性を重んじる教育には一縷の希望があることを、純粋な子ども達と接した御幸森小学校の半年間から思い起こし、いま噛みしめています。
*集英社新書プラスで連載を始めています
*作品は、「動画イズム」で視聴できます
さいか・ひさよ
1987年毎日放送入社。報道記者などを経て2015年からドキュメンタリー担当ディレクター。企画、担当した主な番組に、『映像’15 なぜペンをとるのか~沖縄の新聞記者たち』(2015年9月)、『映像’17 沖縄 さまよう木霊~基地反対運動の素顔』(2017年1月)、『映像’18 バッシング~その発信源の背後に何が』(2018年12月)など。『映像’17 教育と愛国~教科書でいま何が起きているのか』(2017年7月)は第55回ギャラクシー賞テレビ部門大賞を受賞。また個人として「放送ウーマン賞2018」を受賞。
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註―本稿は一般社団法人・自由ジャーナリストクラブの例会(7月8日)での講演を斉加さんが付加・修正されたものです(現代の理論編集部)
特集/第4の権力―メディアが問われる
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- 社会民主主義の再生とベーシックアセット中央大学教授・宮本 太郎
- せこく、いじましく、こざかしい政治の不幸神奈川大学名誉教授・本誌前編集委員長・橘川 俊忠
- 介護保険、制度の持続性限界に元大阪市立大学特任准教授・
水野 博達 - 揺れる教育とメディア~深刻なデマと排外主義に抗うには毎日放送ディレクター・斉加 尚代
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