特集●驕れる者久しからず

本当の危機に立ち向かう政治が必要

安倍政権支持率急落の背景を語る

民進党衆議院議員・原発ゼロの会事務局長 阿部 知子さんに聞く

聞き手 本誌編集部

―――安倍政権への支持率が急落しています。受け皿になる野党がないのが問題だとも言われます。しかし、政治が「世の中をこうする」と正面から言えていないから、現状があるのではないでしょうか。身近な政策をめぐって具体的な論議がないので、人々は政治に見切りを付けたのではないかと思われます。阿部さんには特に福祉政策をめぐる具体的な政策などにも触れていただいて、この「閉塞感」を打破する政治を展望していただきたいのです。
 最近阿部さんが、医療や福祉・介護事業では、その事業体の「人件費比率」を明らかにさせることが重要だとおっしゃっていました。人が人を支える仕事で、きちんと賃金等が支払われていないことを批判する重要な視点だと思いますので、それについてもあとで話を伺えるとよいと考えています。

阿部●安倍政権の支持率の急落とそのベースにある国民の政治への失望――「もう期待しないよ」ということでしょう――が問題です。残念ながらもともと野党・民進党にはほとんど期待がない状態だったので、最後にすがるような形で「アベノミクス、うまくいこうがいくまいが、とにかくなんか現状を変えてくれるかもしれない、ちょっと金回りがよくなっているのかもしれない」というようなところで、アベノミクス期待が漠然とあったと思います。が、ここにきて「結局アベノミクスって、自分たちに、とくに安倍総理個人に都合のいいように金をまいているだけじゃないの」ということが,森友問題や加計学園問題で明らかになったわけです。前川前文部次官が、教育行政を歪めたと「決起」し、官僚の中からもその行動を――もちろん忖度して安倍総理の方についている人たちもあるけれど――心で支持する人たちもあるからこそ、あれだけの的確な言葉になっているのでしょう。まあ、そこまできたということですが。私からみれば結局、いまの時代の大きな、本当に根本的な矛盾というか問題を、政治がまったく把握できていないと思うんですね。

これまで少子高齢化問題が大きな矛盾といわれていたけれど、これも実は制度的にどう支えるかができあがっていなくて、子どもでは待機児童、高齢化では待機高齢者、そして介護現場は崩壊、保育現場も崩壊、となっているので、それは人が人を支えるケア分野のことにもなりますが、すくなくとも「少子高齢化が大問題だ」「一人が一人を支える時代だ」という言葉が出ていたけれど、実際には全然それに追いつかない制度や、お金の使い方の問題があった。

本当の危機は、環境問題だ

阿部●少し飛躍した言い方になりますが、実は人々がなんとなく感じながらも、いまもっとも政治が追いついていないのは、一言でいうと地球温暖化に代表される、この環境的な危機でしょう。それはもう人の生存すら危うくするような危機なのです。

7月初めに福岡・大分で起こった土砂災害は、変な予測をするわけではありませんが、この温暖化状況・気候変動で、そして日本のやせ細った森林で、また必ず起こると思うのです。それくらい、いままでは言葉としての温暖化で「2度上がっちゃ大変だ」とか言っていましたが、それが現実になってきている。

それは実は3・11からなんですよね。原発事故が起きて、それは原子力ムラがあったからとか、安全神話が問題と言われるけれども、やはり大きく突き動かしているものは地震であり津波です。もうこの環境と人間を調和させるための新しい視点がなければ時代は生きられないんだと、悲鳴に近く自然はメッセージしているのに、政治はまったく応えていない。こんなに危機的になってもなお、パリ協定のひとつも国会では話題になることはありませんでした。

いま閉会中審査といって森友・加計問題をやっていますが、実は一番やらなきゃいけないのは早急な治山・治水です。昔は国家の基礎でありましたが、そこがまったく行なわれない。私にしてみたら、非常に表面的なことに目を奪われて、本質的に世界とか地球が変わろうとしていることに政治も政党もまったく対処できていないのです。

これまで安倍政権には、少なくともアベノミクスで幻想としての「すがりたいもの」があったから、それなりに支持率が集まり、民進党にはそれすらないからまったく支持はない。でも、起きている現象は同じで、政治が時代と切り結んでいない。まったくそこを意識していないということなんだと思います。私は、庶民というか国民の方が、生活に近い分だけかしこくて、「やっぱりこれどうなっちゃうんだろう。あちこちで地震も起きるし、もう原発の再稼働なんて言ったってだめだよね」と、みんながほとんど思うわけですよね。原子力ムラがいけない云々で怒っているんじゃなくて、そこにある不安とか危機とか、自分たちの生活に対して及ぼす影響というものに、やはり国民は気づきはじめている。そしてそれは地方から、田舎から出てきている。一方、同時に都会では、危機は先に触れた待機児童とか待機老人とかから、果てはケアする人が障害者を殺してしまうというような、究極にいきついているんですよ。どちらも究極なのに、政治はどちらにも切り込んでないと思います。

それが日本政治の劣化ということだし、実はマスメディアも見識がないと思います。いまここにある危機というものを把握してメッセージを出していません。

核戦争の恐怖だってそうです。北朝鮮の核実験やインド・パキスタンの核軍拡、果ては中東での国家以外の勢力が核爆弾を持つかもしれない危険。「それがあったら終わりだよ」という終末時計が回っているのに。終末時計は、環境問題と核だと思いますが、それにまったく応えない政治です。核兵器禁止条約がニューヨークで論議されるのに、「日本はそんなの関係ない」と。与党も野党もですよ。野党からまず「この会議にはちゃんと出るべきじゃないか」と言うべきでしょう。せいぜい広島と長崎が主張しているだけです。私も国会では取り上げましたけれども、本当にごく短い時間しかできなくて主張が伝わりませんでした。

政治とは、もともと国土や国民を守る、少なくとも生命を守るものであったとしたら、もっと真剣な向き合い方があってしかるべきだし、それは、いままでの与野党の対立をこえたものかもしれないのです。

というのは、基本的にこれまでの与野党の構造は、やはり高度経済成長の延長みたいに、「富の分配をどうするか」というような話です。どう分け前をとるかといった発想の中に、基本的にいまだにあります。55年体制は壊れたとか言いますが、そしてイデオロギーとしての社会主義と資本主義は、まぁ、その対立は資本主義の勝利で終わっているのかもしれませんが、そういう成長モデルとか、それにもとづく分配モデルとかは、実はとうに壊れていた。そこに最後の一撃で、自然というものが、非情な「反撃力」を持って襲ってきた。だって土があんなにガーッと流れてくるでしょう。で、これに応えうるような時代状況認識を政治はもう一回取り戻さなくてはいけないし、そのためには国会は論議の場でなくちゃいけないわけですが、残念ながらいまおこなわれている論議は、非常に表層的です。野党の方もただただ追及型で、「いったどうすればいいんだろう」という問いに全然応えていないと思います。メディアにもその危機感がありません。

根本問題は社会が原発の上に築かれていること

阿部●受け皿になっていないという野党無力論は、評価としてある意味正しくて、でもある意味、問題の根本矛盾をとらえていません。与党は、それでも権力と金を持つから、そこになびく力があって、その結果ここまでもってきたんだと思います。

私個人は、原発事故のときから問題がはっきりしたと思っています。もともと社民党だったから脱原発の立場ですが、その深刻さは、結局人がそこに住めなくなる――福島を丸ごととられちゃったに等しい。何十年と放射能に侵略されて占拠されたようなもので、そこに戻れないという事態が起きている。これに対して、めざすべき高度経済成長の総決算、今後の持続可能な経済、それも少子高齢化の中での環境調和的な経済には、原発は絶対に不向きであると考えています。これは私にとっては単にIssue-項目じゃなくて、総体系、めざすべき社会の総体系なのです。全部のことに関係しています。

昔「総資本との対決」とかいいましたが、それと比喩できるような、総体が原発の上に築かれ、それが津波・地震で一気に崩されて、さらに相次いで自然環境の危険信号が出ているということですから、ここからスタートするしかないということです。そして「未来の党」というのをつくり、「卒原発」を掲げました。それは敷衍していえば、環境主義、環境が第一、環境を一緒に守るべく政策をつくっていこうという政党だったのですが、結果として持続できなかった。持続するにはやっぱりお金もいるし……。それから、組んだのが小沢さんだったから、それが原因か、と(笑)。

そんなことも思いますが、でもそこで芽出しはしたつもりだけれども、勢力になれていないという、自分の限界があります。いま私は、民進党に籍をおいているわけだから、そういう流れをもう一回奮起してつくれるかどうかということが、あのとき私に投票してくれた人たちの思いなんだろうと思って、つねに努力しています。

ただ、民進党という政党は変なところで成功体験、すなわち政権をとって大臣だったことを経験しています。そして変なところで失敗したと萎縮しているようです。政権を失って期待を裏切って、だからなにか論じ合えば分裂というか、党がバラバラでまとまらなくなる恐怖感というのが出てくるから、結局なにも言わない。ダルマさんのように手も足も出ないのです。おまけに主張もはっきりしないから、皆さんから見えるわけないですよね。選べるわけないですよね。「主張のないものをどうやって選べというんだ」と国民は思っていると思います。沖縄も主張しない、原発も主張しない。「30年ゼロ」と言ったかと思うとうやむやに。いったいこれはなんだ、と。

言うのはせいぜい消費税で、でも消費税に関しては、経済状況をみたら、やれるかやれないかはそのときの判断というのがあるでしょうから、未来永劫消費税がいいわけでもないし、悪いわけでもない。ところが「それを裏切った安倍政権はけしからん…」なんてやっているからダメだと、私は考えています。もっと現実を直視して、「いまの危機をともに」というのが民進党の正しい方向です。その中で、環境というのは、民進党だって「コンクリートから人へ」と言ったくらいだから、意識のあった政党なのですが、もっとそれを中心に、骨太に持ってくるということが、根本でしょう。災害というものの持つ、社会を壊していく力を見ると、このように環境を危機的にとらえることが、すごく重要になってくると思います。

医療・福祉の分野で、何が政策的課題か

阿部●来年度予算の準備の過程では、政策論議などは、与野党の間ではおこなわれていなくて、福祉の領域ではとくに少子高齢化で高齢者が増えて、医療費が上がるというふうな話ばかりです。私から見れば、実はいま医療も介護も、障害者福祉も、保育も、すべて人が人をケアする分野で、人がいないというか、人手を集められない。若年世代が減っていて、労働力不足の中で、実はにっちもさっちもいかず、やりくりできなくなっています。深刻です。もちろんそこは、「じゃあ、もっと医療とか福祉にお金を」ということにもなるのですが、やはり、社会の価値規範がそこに向かわないと、この分野というのはどうにもならない。それが行き詰まりの大きな原因だと思います。

医師も、別に不足というよりは「偏在」が問題です。それは都会に医師が集まり、地方では、地方の都市部にはまだいるけれども、少し離れると実際に医療を担う人はいません。また常勤の勤務医は大変だから、外来だけのパート勤務がいいとか。とにかく働き方がどんどん崩れていっています。要するに、賃金の時間当たり単価の高い方へと、ケア労働、医療とか介護労働も向かっているのです。

実はいま医療界でものすごく問題になっているのは、介護も看護もそうですが、派遣会社に払うお金が破格に高いことなのです。「国民皆保険」になってはいますが、そこから出るお金はどこにいっているかという問題です。実際には、診療などの報酬として、医者として看護師として、介護士として働いたその人たちのところに返ってこないで、派遣会社がその手数料を「かっさらう」状況です。

その派遣労働がついには保育にまで及んでいます。これが一番深刻です。大人であれば介護でも医療でも、たとえば派遣の看護師さんがきても、まだいいでしょう。正直に言ったら、ケアとか看護では困ることもあるかもしれないけれど、かえって親切だったりするかもしれませんね。そのときだけでいいわけだから。

しかし、保育においては問題のあり方が違います。保育は子どもにとっては、ある人間との人間関係の築き方で、自分を誰が受け止めてくれたか、どういう要求をすればなにを返してくれたかというのを、圧倒的な大人と子どもの力の差、存在の差の中で、学んでいくわけです。子どもだっていろんな人が来たら疲れるし、この人にはこう要求し、あの人にはこう要求してと、そんなことを小さな子がやっているということの異様さを、理解すべきだと思います。その異様さを日本国民は知るべきなのです。

たとえば毎年5000億円医療費カットだと、医療費がどれくらい抑制されたか、大変に問題にしています。それはそうかもしれないが、でも「それじゃあいったい派遣業者にいくらいっているの」と聞いても、そんなデータは出されていないし、実態が全く分からないわけです。日本病院協会などが調べて、何百億円という数字も出していますが、そんなのは氷山の一角でしょう。そして、現場の実態では、施設基準とか看護基準とかを満たすために、必ず紹介業か派遣業に頼らざるをえないのが実情です。そこを変えなくてはなりません。いくらお金をつぎ込んでも、最後は派遣業者などにいってしまうのでは全く意味がありません。入口を太くするよりは出口のあり方をしっかりつかむことが大切です。それは、医療労働とか介護労働とかの報われ方や賃金のあり方の問題でもあるでしょう。

医療と福祉は社会の規範を決める

阿部●医療労働に関して一言いえば、自分が医者だから特に思うのですが、医療ほど医者と医事という事務部門の賃金の開きが大きいところはないわけです。医者は、私もそうですが、1億円もお金をかけてつくられて、いつも頂点にいて、そしてアルバイトで稼いでもいいというようなことになっています。一方、医事課の皆さんは、医事も外注されますから、ほとんど常勤になれない。常勤になっても医師の給与の10分の1から15分の1ですよね。医療はみんなで支えているものなのに、確かにすべての医療行為は医師の診療というところからお金が発生するとはいえ、非常にいびつなお金の分配をしています。

もちろんそうはいっても、医療はコンクリートにお金をつぎ込むより、うんと意味があるし、投資効果は高いと思います。そこに雇用が生まれたり、関連の周辺産業が生まれたりもします。だから医療や介護、障害者福祉、保育、そういう分野にお金が入ることはいいことなのです。だけれど、入ったあと、誰に、どこにそのお金がいくのか、その問題を明確にせよ、といいたいのです。

それから、医師の偏在はこれでいいのか、あるいは非正規ほどお金が儲かって、逆に正規ほど重労働で疲弊して、みんな「やめたい」などということでいいのか、と思います。そんな業種は他にないと思いますよね。それが命を支える分野で行われているなんて、おかしいし、怖い話だと思います。私自身は何十年か働いて、自分にかかった分は少しはお返ししたんじゃないかと思うくらい、それなりに働いたと思ってはいますが。

たとえばタイでは、医師になろうとして公立大学を出たら、3年間地方部での勤務が義務づけられます。一方、日本では、義務年限がある地方枠とそうではない一般枠に分けて医師を養成していますが、これは差別でしょう。誰もが地方を経験しなくてはいけないし、誰もが最前線を経験しなくては、やはり医療の底上げなんてできません。そういうところの方が、私は大事だと思います。

そして医療とか福祉は、それこそ社会の規範を決めるものです。命とはなにか、そして障害とはなにか。1人の障害者が無用だったら、人間はみんな無用なのです。障害は単にグレード、正規分布のグレードですから、1人が無用だったら、ここまで無用、ここまで無用、というようになってしまいます。完全な健常者もいなければ、完璧な障害者もいないわけです。

その中で「意思表示ができない障害者は、いない方がいい、金食い虫だ」と思ってしまったのが、津久井やまゆり園事件の加害者です。でも彼自身も、そういう完璧な健常者、あるいは完璧な稼ぎ手、完璧な正社員とか、そういう規範の中で自分を逆に切り刻んでいたからこそ、「お前は完璧じゃない」、「なんでここに金がいくのだ」となっているのでしょう。ただ、これも残念なことに、ただの1回も国会の中で調査会などももたれていません。「津久井やまゆり園問題とはなんであったのか」と国会で議論することがとても大切だったと思います。北欧の国でテロがあって、障害者が殺されたときに、国会に調査委員会を置いたことがあります。私も「そうあるべきだ」と言ったのですが、当然のように採用されませんでした。

本当になにもなかったかのように、障害者の名前さえ消されて、そこに存在しなかったかのようにされてしまっています。前川前次官が「あったことはなかったことにはできない」と言いましたが、生きていたのに、そこに居たのに、なかったことにされようとしている障害者。「それは無価値だから」というのとどこがいったい違うのかと、私は強く思いますね。

人が人をケアする現場に手厚い処遇を!

阿部●いまやらなくてはいけないことがあるとすれば、人が人をケアする分野で、その人たちの遇され方――得られるお金もそうだし、地位もそうです――をしっかりさせねばなりません。それから、こちらは基本問題ですが、絶えず人は人を排除することによって自分が安定しようとする向きを持ちますし、これが差別の根元ですから、そういうものを乗り越えていくための、教育も必要だし、お互いの検証も必要でしょう。そういうことにもっとお金と時間をかけるべきなのです。

国会の厚生労働委員会で塩崎厚生労働大臣に質問して言ったのですが、ひとつの業務が成り立つときの人件費比率が、その業務の質をほとんど決めているのです。いま保育現場では派遣の保育士ばかりです。昔は公立保育園の人件費比率といったら、7~8割だったんですよ。医療分野でも7割くらい。私は民間の医療機関にいたから、人件費比率が50%をこえたらもう成り立たないということで努力しましたけれど、それは減価償却の費用も違うし、土地を取得して、自分たちで病院を建てて事業としてやっている民間の大変さだから、仕方ない面もあったのです。国公立の事業なら、7~8割が人件費でよかったわけですよ。

でも、保育の現場の人件費比率がかつて7~8割だったものがいまは株式会社などでは3割。考えてみたら、ほとんどが人件費のはずじゃないですか。子どもを抱っこするのもロボットじゃないんですから。3割でどうやっているのかというと、派遣なのです。派遣は物品費で、人件費ではない。さらに、できるだけ監査のときだけ頭数をそろえればいいから、その期間だけ派遣してもらって、あとは無資格でもいいということになります。そういう具合に使っているところがいっぱいあります。国会質問で取り上げた「D保育園」は、いろいろ報道されていますが、こっちの保母さんを別の園にいることにしたり、あっちの園長にしたりしていました。

そしてお金は湯水のように、医療福祉機構からの融資などの形で、異様なスピードでくるわけです。これは別に保育のことを本当に思っているわけではなくて、そこから儲けを吸い上げられる者がいるからです。そこに来たお金はいまでは介護にも使っていい。ですから、落ち目産業になってきて人が集まらないから、成り立たない介護施設にも、法人の中でお金をまわして使っていいことになっている。要するに、国民の「待機児童をどうしてくれるんだ」という声にのって、医療福祉機構というお金のプールをつくって、そこから流して、で、それが法人に行き、さらにめぐりめぐっていろんな利益集団に吸われていく。社会福祉法人の健全性も失わせてしまったし、株式会社では言わずもがなです。

もともと保育なんて儲けにならないのですから、株式会社ではやれないはずです。上場して評価してもらってやれるような分野ではないでしょう。でも小泉政権時代から、保育の規制緩和で、さらにいまはもう小泉政権の比ではないくらいになっています。融資もします、どんどん増やしてください、あとは野となれ山となれとばかりに、本当にこんな無駄なお金の使い方をしていては、いくらお金があっても足りないよなあ、と思いますね。

福祉で儲ける仕組みを解体すべきだ

―――労働政策でまったく同じことがあります。象徴的なのはパソナ会長の竹中平蔵。自分で法律をつくって、それによって人材派遣業などで自分が稼ぐ仕組みをつくっています。労働行政はお金をたくさん出しているから、いかにもちゃんとやっているように見えるけど、中身としては「民間委託」などといったりして、働く人へはお金がいかなくて、儲ける奴がふところに入れています。

阿部●持って行っちゃうんですね。本当に医療や介護、保育の分野の派遣会社に流れているお金を明らかにしたらものすごいものでしょう。

他の労働分野でも派遣が安易に使われています。民主党政権時代に、社民・国新・民主で労働者派遣法の改正ということを掲げて、ずいぶんがんばったけれど最後は腰折れて、いまに至っています。そこについに残業代ゼロ、高度プロフェッショナル? 死んでもいいから働け、ということでしょうか?

―――しかもそれを連合が容認すると言い出した。いったん止まっていますが、労働組合もおかしくなっているし、労働行政もおかしくなっている。福祉の社会でも同じようなことが起きているということですね。

阿部●ついに福祉・医療です。ここは昔から規制の強いところで、守られてきたのですが、そこまできた。そして、最後に保育にきている。次世代をつくれないところにいこうとしている。

私は子どもの医者だから「三つ子の魂百まで」というのはそのとおりだと考えています。親が自分で育てるかどうかではなくて、その行動パターンとか、人への応答とか、信頼性の醸成などが重要です。あと言葉への信頼ですね。言葉をかけられて言葉を返して、そういうラリーができるのも、言葉の裏に信頼があるからです。小さな子どもは、ただ外に向かってパーパー言い放っているわけではないのです。その信頼の根本ができない子どもたちが増えています。長時間保育というのは仕方がないとして、でも、夕方から来るパートの保育士に接して、2時間したらまた違う人が来て、という具合では、子どもは疲れます。だから本音なんか言わない。もう言っても分かってくれないから、と。そうすると子どもは泣かないし無言になります。これでいいんだろうかと、不安に思いますね。

ですから、親の側の働き方も変えなくてはならないのです。未来の党のときに出した政策も、オランダのようなワークシェアモデルでもいいとしていました。生活時間と労働とを調和させ、家事に関わる時間も大事だという考えを、時代の潮流にしていかないといけません。

保育士さんの問題でいうと、M字カーブにもならないのが保育士さんです。理由は3年でみんなやめるから。自分に子どもがいても、長時間労働で、そして派遣が多かったら正社員だけ残って働くわけです。それでは自分の子育てができないから、みんなやめます。潜在保育士は60万から70万人。なのに現場では30万人しか働かない。子どもが好きな保母さんだったら、自分の子どもも大事ですから、当然やめるんです。

閉塞感を打ち破るカギはどこにあるか

阿部●身近な人を殺すという事件が増えているように思います。外に向かえないからでしょう。外に向かえない子どもたち、あるいは親が増える。虐待が増えるというのは、自分の身近で自分より弱い者に向かうことですし、親族殺人は、自分と深い関係があって、そこでもつれにもつれた感情のはけ口が向かう。やはり人間と自然の関係の中で、過密に人間が置かれると、非常にイライラしやすくなるし、たえず8面鏡の中に生きているみたいになっている。いま親も子もリラックスしていないですよ。お母さんたちも自分の周りにどう思われるか、と考えて、自分で全部背負い込んで、できないのにやっている。子どもの方も、ため込んでいるようです。

竹信三恵子さんが、「家事ハラスメント」という言葉を使われました。生存の基盤である家事、家に関わること、個体の再生産に関わることが、ハラスメントにされていて、その上で残業時間規制などと言われても、それはおかしいと私も思います。確保すべき人間の、生きるための時間というのがあるんです。子どもがいたり、ご高齢者の介護があったりしたら、当然、時間は必要で長くなってくるし、それがやりづらいから少子化にもなる。高齢者は家族と離れて、1人、施設入所に頼らざるをえない。人間は、もう少し老いを見たり、子どもと一緒にその育ちを楽しんだりする権利があると思います、私は。

―――安倍政権で最低賃金がある程度上がったことについて、評価はいろいろありますが、どうでしょう。

阿部●私は最賃引き上げには大賛成です。もう1つやるべきは、社会保険料負担を中小零細企業に対して、国がもっと補助することです。放置すると小さな会社が結局つぶれます。最賃引き上げ絶対不可欠。生活できる賃金がないんだから。と同時に日本の7割は中小企業で、そこでは、正社員にしたいし、質のいい人を採りたい。だけど、もう採るにとれないところにはまりこんでいます。ドイツでは、消費税を引き上げた分、社会保険料負担の企業負担の軽減に充てたんです。消費税を福祉目的税にしろという考えもありますが、消費税はやはり税のひとつで、その活かし方の問題です。そういう論議もされない。これは実は私の社民党時代からの持論ですが。

賃金を上げなくてはいけないのは大前提。でもそれで企業が持続可能性を失ったら、これも終わり。固定費は重いわけです。

格差と貧困という問題ですが、理想論の一つを言えば、生活の全部をお金で買って賄うような生活のスタイルを変えるべきことではないかと思います。たとえば農業などそうですが、なにかものを生産してそこで少しなりとも現金ではなくて、ものが手に入るというようなライフスタイルです。その変化をもたらさないと、このまま自然から疎遠になり、疎外された人間は、結局いびつになり、象徴的にはスマホの世界、バーチャルな世界で、自分が分からなくなってしまいます。

私たち民進党でも、教育の無償化を掲げていて、それも保育と教育の両方の無償化です。子どもの育つ権利として保障することによって、実は親の世代にも少しゆとりができたら、それは親自身の再教育とか再チャレンジとか、いろいろ本当に機会にめぐまれなかったことを補填していけるかもしれません。これは、教育を軸にしたかつてのイギリス・ブレア政権の政策です。

日本は、この失われた20年とか30年で、派遣労働を増やし、人間のいろいろな意欲・経験をそぎ落としてやってきた結果、労働生産性だって上がらないし、社会が元気になれないというところまで落ち込んだのです。限られた財源で、どこにお金をつぎ込むかといったら、幼少時の無償教育にはじまって、職業教育の保障につなげることでしょう。人が教育を受けることによって自分のチャンスを拡大していけるということだと思います。

私はドイツのフリードリヒ・エーベルト財団というところと交流していますが、ドイツも社民党が低迷して悩んでいるわけで、いまの社会の持っている矛盾を乗り越えていくには新しいアプローチが必要だと考えています。

あらためて家族の意味など考えます。東日本大震災や福島の事故では、4世代・3世代同居が、1世代ごとにバラバラに仮設住宅に入って、生きる意欲すら失っている人がいるわけです。そうすると世帯として継承されたもの、一緒にいたことの意味――子どもがおじいちゃんに持っていることの意味を考えます。資本主義的な家族観、古い人たちが言う家族観ではなくて、人間として、確かに感じるものがあって、そのことの重要性をどう位置づけていくかが重要でしょう。

だから私は政策的には家族手当などに賛成です。人は1人でも生きられるけれども、やはり家族というひとつのミクロコスモスを持つことによって――それは犬と私の家族でもいいんです。犬飼ったら補助してくれたらうれしいな、とは言わないけれど(笑)――人間はぽつんと大宇宙に浮かんだようなものではなくて、誰かと誰かの関係で、支えられていることがよくわかるのだと思います。それを言わなければならない時代になっている。希望へのパスポートはなんであるのか、ということですよね。

その意味で、本当に未踏の時代をいま生きていると思います。

あべ・ともこ

1948年東京生まれ。国際基督教大学から東京大学医学部卒。小児科医。千葉徳洲会病院院長を経て、2000年社会民主党から衆議院議員に初当選。長く社民党政審会長を務める。その後、日本未来の党、みどりの風を経て、2014年12月民主党より立候補(選挙区は藤沢市、寒川町の神奈川12区。比例南関東ブロック選出。6期目)。現在、民進党男女共同参画推進本部副本部長、超党派議連「原発ゼロの会」世話人・事務局長、超党派議連「立憲フォーラム」副代表。

特集・驕れる者久しからず

第13号 記事一覧

ページの
トップへ