連載●シリーズ「抗う人」⑯

反体制でありたい・・短歌の世界で表現活動
を続ける~道浦母都子

ジャーナリスト 西村 秀樹

全共闘世代の歌人

大阪の千里ニュータウンの一画にある、道浦母都子(もとこ)の瀟洒な自宅を訪れた。お茶をいただき、ほっと一息ついたところで道浦から開口一番、その一言が心に響いた。

「物を書く人間は反体制でありたい」と。その率直さが道浦の本領なのだと、実感した。優しいけど、芯がある。

道浦母都子の肩書きをどうしたものか、思案した。歌人であることには違いないが、「全共闘世代の歌人」という表現は陳腐に聞こえるかもしれないが、それでも道浦を語るのに必要かつ充分なものではなのだろうか。

代表作はたくさんあるが、よく引用されるのは以下の短歌だ。

神田川流れ流れていまはもうカルチェラタンを恋うこともなき

催涙ガス避けんと秘かに持ち来たるレモンが胸で不意に匂えり

今でも監視対象

道浦母都子さん(写真は本人提供)

1960年代後半の全共闘の時代からはるか50年経った今でも、道浦家周辺は時間がそのまま凍りついているという。つい最近も、例えば、サミット参加のため、欧米各国のリーダーたちが日本を訪問する時期、大阪府警の公安警察官が姿を消す気配もなく、あからさまな様子で静かな住宅地にあって人通りもまばらな道浦の自宅前に、永くたたずむという。大阪府警の公安警察官はほかに監視対象を知らないのかと、当事者ではないわたしはおもわず笑ってしまったが、こうした事実を淡々と語る道浦の目は笑っていない。

恋と革命の一族

道浦のルーツを尋ねた。

和歌山だという。祖父は政治家であった。道浦若八(わかはち)といい、部落解放運動にも縁があったと道浦は語る。さっそく和歌山人権研究所に若八について問い合わせの電話をすると、ほどなくして返事が届いた。大正デモクラシーを背景に1922年3月3日、京都・岡崎公会堂で「全国水平社」結成集会が開かれた。和歌山県下の被差別部落民も参加したが、まもなく地元で組織づくりに動き出し、翌1923年5月17日和歌山県水平社創立大会が和歌山市公会堂で開かれた。道浦の祖父、若八はその創立集会で冒頭、あいさつをしたとの記録が残っている。「この日は、紀州徳川家初代藩主の和歌山入城を記念した和歌山祭にあたり、その支配者徳川家に対して糾弾する意図があった」と、部落問題人権事典(解放出版社)は書く。

若八は私生児として生まれた出自から、マイノリティというか社会的な弱者の味方であった。県会議員として政治の世界に身を投じる。その祖父は二期五年の任期半ば49歳の若さで亡くなる。

そうした祖父のやさしい生き方に感化されたのか、父親もリベラルな思想の持ち主であった。若くして父親を亡くし、道浦の父は家族を養うため大阪工大の土木学科を卒業した後、当時、日本の植民地であった朝鮮半島におもむく。日本窒素(後のチッソ)の関連会社、朝鮮窒素に勤め、鉄道の路線や都市計画の仕事に嬉々として打ち込んだ。やがて父はソウルでお見合いをし、結婚した妻と日本に引き揚げる。

土木技師一家は朝鮮から引き揚げ、祖父ゆかりの和歌山に居宅をかまえた。父の書斎には、金日成(朝鮮民主主義人民共和国建国の父)全集が並んでいたというし、カチューシャ劇団の芝居をよく見に行っていたという。名前から推測するに、歌声運動時代の新劇の劇団であろう。

その和歌山で敗戦から2年後の1947年秋に、道浦母都子は二人姉妹の次女して誕生した。母都子は和歌山の小学校を経て中学校を卒業する時期、父親は大阪北部に新しく千里ニュータウンを建設する仕事につくため大阪に職場を移し、母都子も引っ越す。母都子は大阪府立北野高校への進学を決め、一年生の新学期から通った。

これはのちのことだが、父親は女性が大好きだった。父の体験を道浦は友人で直木賞作家の黒川博行に話すと、黒川はその体験を面白おかしく小説に書いた。その作品『後妻業』はベストセラーになり、その映画化作品は今年8月、公開される。

10・8

父親は妻が二人目の子宝に恵まれたとき、男の子を望んだそうだが、生まれた子は女の子であった。父は母都子に対し、弁護士になって欲しくて早稲田大学の法学部進学を希望したというが、母都子は早稲田大学文学部の演劇科に進む。

1960年代半ばのこの時期、学生運動は60年安保の挫折からようやく脱し、日韓条約反対闘争からベトナム反戦など課題が目白押しで運動は次第に盛り上がっていく時期にあたる。道浦母都子の人生を変える出来事がこの時期、起きた。10・8(ジュッパチ)とも第一次羽田事件とも呼ばれる事件だ。

当時の佐藤栄作内閣は、アメリカのベトナム戦争を支持し、沖縄嘉手納基地からB52爆撃機のベトナム出撃などを容認していた。ときの総理、佐藤栄作がベトナムを含む東南アジア諸国歴訪に出発する1967年10月8日、新左翼諸派は佐藤首相のベトナム訪問阻止闘争を組織。羽田空港に通じる三つの橋に向かった。

そのとき、京都大学生山﨑博昭が弁天橋で死亡する。警察は「仲間の学生が運転する、機動隊の警備車に間違って轢かれた」と発表した。しかし家族は全裸の遺体に対面した後、「身体にクルマに轢かれた痕跡はなかった」と警察発表を否定するコメントを出し、権力によって殺されたと主張、見解は真っ二つに分かれた。

道浦母都子は、ベトナム反戦運動の過程で、同世代の学生が死亡したことに大きなショックを受け、学生運動に身を投じた。

板橋21号

道浦は早稲田大学に進学し、演劇科で芝居や映画の脚本を勉強するつもりであったが、早稲田大学はある党派が大きな力で支配、一方、道浦が属する党派はそこと敵対関係にあり、道浦は早稲田大学には通学できない。このため、法政大学を拠点に学生生活を送った。

労働組合のナショナルセンター総評がベトナム反戦運動推進のため、毎年10月21日を国際反戦デーと名づけた。羽田闘争の翌年1968年の国際反戦デーは大揺れに揺れた。世に言う「新宿騒乱事件」だ。

近代日本総合年表(岩波書店)の記述を引用する。「10・21 国際反戦デー。全国600か所で集会・デモ。反日共系全学連学生ら、国会・防衛庁に侵入。新宿駅を占拠・放火。国電運転不能。警視庁、翌零時15分騒乱罪を適用。逮捕734人(うち同罪適用352人)」

何せ50年前の出来事なので、念のため、新宿騒乱事件の背景を説明する。新宿駅では、在日米軍立川基地に向けてジェット燃料を満載した貨物列車が衝突・爆発炎上する大事故が起きた(1967年8月)。この事故を受けて学生たちは、東京の一大ターミナル新宿駅を危険なジェット燃料を満載した貨物列車が日常的に通過する事態に対し抗議活動を続けていた。そうした一連の動きの頂点が1968年の国際反戦デーであった。

この1968年は、フランスでは五月革命、カルチェラタン(ラテン地区)を学生が大規模デモで占拠したり、日本でも長崎県佐世保の在日米軍港への原子力空母エンタープライズ寄港に対し労働者、学生による寄港阻止の反対運動など世界的な学生叛乱の年にあたる。その一方で、ワルシャワ条約機構軍がチェコのプラハに武力侵攻しプラハの春と言われた民主化運動を鎮圧。ソ連による東ヨーロッパへの抑圧があからさまになった年でもある。

話を道浦母都子に戻すと、新宿騒乱事件に警視庁が騒乱罪を適用してからおよそ1か月後の1968年12月早朝6時、道浦母都子の杉並の下宿に公安警察官が踏込み、道浦は逮捕された。

警察署で、道浦は完全黙秘を貫いた。警察署の留置人番号にしたがって「板橋21号」と呼ばれた。警察での取り調べ、検察での取り調べ、合わせて23日間の調べの後、道浦は起訴猶予が決まる。この段階で道浦は弁護士を通して、はじめて家族に連絡をとった。身柄釈放で姉が迎えに訪れ大阪に帰宅すると母は「お嫁に行けない」と嘆くばかりであった。道浦も「21歳で人生は終わった」と感じたという。そういう時代だった。

21世紀の人権感覚、家族の成り立ち、フェミニズムから考えると、冗談のように感じるほど大昔の話に聞こえる。しかし、恋と革命の一族ですら、学生運動に参加し逮捕され起訴猶予に終わった娘に対し、家族思いの母親が感じた思いは真剣で痛々しいものだったであろうことは容易に想像できる。

安田講堂攻防戦

翌年1969年1月、全共闘運動は一大決戦を迎える。東京大学の安田講堂の攻防戦だ。東大全共闘をはじめ新左翼各党派は安田講堂を占拠していた。ここに、いよいよ警察の機動隊が導入され、攻防戦が始まる。

道浦は安田講堂攻防戦に参加したいと申し出たが、安田講堂内部の残留は許されず、キュウタイ(救援対策)の係を命じられた。

またまた近代日本総合年表(岩波書店)の記述を引用する。

「1.19 東大安田講堂封鎖解除に投入の機動隊員8000人、警備車700台、ヘリコプター3機、カッター23、エンジン削岩機4、ハシゴ車10、消化器478、催涙ガス弾4000発、学生の投石・鉄棒などトラック6台分」 

この年3月の東京大学の入学試験は中止された。私ごとで恐縮だが、わたしはこの年高校を卒業し大学入試を迎えたが、東大入試中止により日本中の大学のヒエラルヒーが混乱し、滑り止めの大学からも不合格の通知しか来ず、結局、浪人することになった。

短歌に目覚める

翌年(1970年)、朝日新聞の発行する週刊誌「朝日ジャーナル」が懸賞論文「私にとっての70年以後」を募集、道浦の書いた論文「わが遠き70年―絶望への出発」が入選する。逮捕以後、道浦は表現者として少しずつ歩みを始める。

在学中(1971年)、道浦は短歌の結社「未来」に入会し、歌人近藤芳美に師事する。近藤は戦後の歌壇を代表する歌人で、朝日新聞の朝日歌壇の選者を長く務め、文化功労者に選ばれている。道浦は近藤に師事した理由を「この人なら判ってくれるだろう」と思ったと説明してくれた。ちょっと上から目線だと感じられないこともないが、信じていた学生運動が内ゲバで党派は違うとはいえ学生運動に加わった学生同士が陰惨に殺し合う現状が我慢できない時期、社会運動にも理解を示す近藤の短歌に惹かれたのは、学生らしい感性のなせるワザではなかったのか。

近藤は道浦にこう言った。「短歌をつくるなら、うんと志のある歌をつくりなさい。そして長く続けなさい」。

道浦が大学4年生を迎えた時期、早稲田大学は学生に大量のレポート提出を求め、レポートを提出すれば単位認定という方針を打ち出した。道浦も毎日毎日レポートを書き続け、1972年、卒業する。

演劇科の教授には、河竹黙阿弥の孫にあたる河竹登志夫や、江戸末期の鶴屋南北研究の郡司正勝といった歌舞伎研究の第一人者が揃っていた。日本映画の名作「泥の河」「伽倻子のために」などで知られる映画監督の小栗康平とも、シナリオ学校で映画の脚本を書く勉強仲間だという。

大学卒業後、道浦は大阪に帰り、地元の新聞「朝日ファミリーニュース」記者として働く。29歳の時、道浦は短歌仲間の医者に求婚され、結婚する。夫は政治的な活動暦はなかったという。埼玉県や山梨県の病院勤務に付き添い引っ越した。やがて夫からのDV(ドメスティック・バイオレンス)にあい、たまたま姉が母都子の嫁ぎ先を訪ねてきた時、夫から足をけられた痕跡があったのをきっかけに、姉の「帰ってきなさい」の一言が決め手になり、逃げるように大阪に戻ったという。医者の夫は離婚届にハンコを押すまで半年間かかったという。

1980年、道浦は全共闘運動に関わった学生時代をうたった歌集『無援の抒情』を発表、翌年に現代歌人協会賞を受ける。本のタイトルは、高橋和己の『孤立無援の思想』から来ている。全共闘世代にとって、高橋和巳とはずいぶんと懐かしい作家の名前だ。

この歌集は10万部を超えて売れた。歌集でこれほどベストセラーになったのは、道浦以前は寺山修司の歌集、道浦以後は、俵万智の『サラダ記念日』というスーパーセラーがあるくらいだ。

この歌集が道浦の人生を変える。

エロス

国会図書館で「道浦母都子」と検索をかけると、論文を含めると205件ヒット、図書に限ると59件がヒットする。

1970年代は先ほど言及した朝日ジャーナルの懸賞論文だけだが、1980年代に入ると、歌集はさきほどのに加え、二冊『水憂』『ゆうすげ』を発表。他に現代歌誌月評、師である近藤芳美研究など短歌に関連する論文に混じり、「死によって生き続ける生ー樺美智子」といった学生運動に関するエッセイが目を引く。

表現活動は1990年代からとても活発になる。図書だけに限っても、歌集『無援の抒情』が岩波同時代ライブラリーとして再出版されたのをはじめ、第四歌集『風の婚』(1991)第五歌集『夕駅』(1997)、『現代歌人文庫 道浦母都子歌集』(1998)、『青みぞれ』(1999)と続く。艶かしくも、エロスを感じさせる。バリケード時代以後の短歌を引用する。

如月の牡蠣打ち割れば定型を持たざるものの肉のやわらかき

全存在として抱かれていたるあかときのわれを天上の花と思はむ

産むことを知らぬ乳房ぞ吐魯番の絹に包めばみずみずとせり

都はるみと

演歌歌手都はるみと出会ったのも、1990年代。  京都出身の歌手都はるみのパートナー中村一好が道浦を訪れた。都はるみと道浦は学年が同じ、同世代。中村から道浦へのリクエストは、都はるみが歌う曲の作詞だった。それも単純なものではない。中村は、道浦に作家高橋和巳が戦前の大本(おおもと)への宗教弾圧をテーマに執筆した小説『邪宗門』を示した。こうして誕生したのが、道浦が作詞、都はるみが歌う「邪宗門」として、レコードは98年3月に発売された。インターネットの動画画像で都はるみの歌う姿を見ることができるが、6分30秒の長さなのでテレビには向かないという。今でも、都はるみとはお酒を酌み交わす。

漲れる 男の体 寒の夜を 抱きしめれば 樹液の匂い(「邪宗門」)

山﨑プロジェクト

21世紀になり、日本はつかの間の政権交代の後、安倍晋三政権となりきな臭い世の中に変わった。2014年7月一つの市民運動がスタートした。「10・8山﨑博昭プロジェクト」という。賢明なる読者はすぐに理解されたと思うが、10・8とは、道浦母都子が人生を変え学生運動に身を投じるきっかけとなったベトナム反戦運動の節目1967年10月8日のこと。10・8から50年目の節目にあたる2017年秋を一つの到達点とする、文化的な反戦イベントが動き出した。

亡くなった山﨑博昭の兄、山﨑建夫らが発起人となり、道浦にも呼びかけがあり発起人の列に加わった。山﨑プロジェクトは、こう訴える。

「私たちは彼が生きていたことを忘れない。

1967年10月8日、ベトナム反戦デモで、一人の若者が死んだ。山﨑博昭、18歳。

あれから半世紀、日本は徐々に戦争に向かいつつある。山﨑博昭の名とともに、私たちはいまも、これからも、戦争に反対し続ける意思を表示する」と。

その上で、具体的な目標を、羽田空港に向かう東京都大田区の弁天橋近くでのモニュメント建立と、この50年を振り返る記念誌の刊行の2点を挙げる。

大阪では、山﨑が卒業した大阪府立大手前高校の先輩である山本義隆・元東大全共闘議長による講演会が開かれ、御堂会館の会場に大勢の市民が押し寄せ、立ち見の観客が出た。

昨年10月に開かれた東京での集会では、山﨑と同じ高校OGで、作家の下重暁子が「家族という病・国という病」というタイトルで講演した。そのあと、道浦母都子がフラメンコギターをバックに、自作の『無援の抒情』から10首朗読した。道浦がデビュー歌集からの短歌を朗読することは初めてだという。

今年11月には、山﨑博昭と京都大学で同期の社会学者、上野千鶴子・東大名誉教授による講演会開催が大阪で計画されている。道浦は、10・8から50年目の来年、ベトナムのホーチミン市の戦争証跡博物館で開催予定の「山﨑博昭プロジェクト」展示のため、ホーチミン市を訪問することを心待ちしている。 (文中敬称略)

にしむら・ひでき

ジャーナリスト。1975年慶應義塾大学経済学部卒業、毎日放送入社。現在、近畿大学人権問題研究所客員教授、同志社大、立命館大非常勤講師。日本ペンクラブ理事・平和委員会副委員長。著書に『北朝鮮抑留』(岩波現代文庫)、『大阪で闘った朝鮮戦争』(岩波書店)

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